名探偵の掟 東野圭吾 [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(裏表紙.jpg)] [#ページの左右中央]   名探偵の掟 目次 [#改ページ] プロローグ 第 一 章 密室宣言――トリックの王様 第 二 章 意外な犯人――フーダニット 第 三 章 屋敷を孤立させる理由《わけ》――閉ざされた空間 第 四 章 最後の一言――ダイイングメッセージ 第 五 章 アリバイ宣言――時刻表トリック 第 六 章 『花のOL湯けむり温泉殺人事件』論――二時間ドラマ 第 七 章 切断の理由――バラバラ死体 第 八 章 トリックの正体――??? 第 九 章 殺すなら今――童謡殺人 第 十 章 アンフェアの見本――ミステリのルール 第十一章 禁句――首なし死体 第十二章 凶器の話――殺人手段 エピローグ 最後の選択――名探偵のその後   解 説 村上貴史 [#改ページ] [#ページの左右中央]   プロローグ [#改ページ]  私の名前は大河原番三《おおがわらばんぞう》、年齢は四十二歳である。県警本部捜査一課の警部で、殺人事件となれば、部下を引き連れて現場に駆けつける。  大河原という名字が暗示するように、警察内ではいかつい顔で有名だ。鼻の下に髭《ひげ》なども生やしているわけである。私が、「こら、何をやっとるか」と怒鳴《どな》れば、派出所勤務の新米巡査などは、にかわで固めたみたいにコチコチになるのだ。  このように私はどこから見ても立派な警部なのだが、じつはあまり大きな声ではいえない欠点がある。それは、この任務について以来まだ一度も手柄をたてていないということだ。いやもちろん書類上は、事件を解決したり犯人を逮捕したりもしている。そうでなければ、捜査の指揮官という立場にいつまでもついているのが不自然である。ただその解決なり犯人逮捕なりを実際に行っているのは、私以外のある人物なのだ。  ある人物とはそう、あの有名な名探偵|天下一大五郎《てんかいちだいごろう》である。よれよれのスーツにもじゃもじゃ頭、古びたステッキがトレードマークだ。事件の関係者一同を集め、「さて皆さん」という決まり文句から入って自分の推理を展開し、最後に、「犯人はあなただ」とステッキで指す場面を、映画などで見たことのある人も多いかもしれない。  彼のことを知らなくても、賢明な読者ならばもうおわかりであろう。つまり私は天下一探偵シリーズの脇役なのである。名探偵ものには必ずといっていいほど、見当はずれな推理を振り回す刑事が登場してくるが、その道化を演じるのが私の役どころだ。 「なんだ、じゃあ楽な仕事だな」  という台詞《せりふ》が聞こえてきそうである。真犯人を自分の手で見つけなくてもいいわけだし、事件解決のための鍵を見逃したって一向に構わない、とにかく当てずっぽうに関係者を疑っていけばいいのだから、こんな楽なことはない――読者の皆さんはそう思っておられることだろうと想像する。  とんでもない。  こんな辛い仕事はない。ちょっと考えてみれば、探偵役よりもずっと大変だということがわかるはずである。  まず真犯人を自分の手で見つけなくてもいいという点だが、これは逆にいえば、真犯人を自分の手で見つけてはいけないということである。この理由はおわかりだろう。真犯人を見つけだすのは主人公天下一探偵の仕事であって、その見せ場が来る前に私が解決してしまえば、主人公の存在が無意味になってしまう。何よりも、探偵小説として成立しないではないか。  同様に、事件解決のための鍵は見逃さなければならない。当てずっぽうで関係者を疑うのはいいが、まぐれ当たりがあってはいけない。  おわかりだと思うが、この制約はなかなか苛酷《かこく》である。|間違っても《ヽヽヽヽヽ》、真相に近づいたりしてはいけないのだ。  さてここで皆さんに質問だが、決して真相に近づかないためにはどうすればいいか?  そう、そのとおり。真相をいち早くつきとめ、それを避けるのが一番だ。つまり私は常に主人公である天下一探偵よりも先に事件の真相を暴《あば》き、わざとその推理を迂回しながらすべての行動を起こしているのだ。  前回の事件を例にとろう。山奥にある過疎の村で起こった、残虐極まる連続殺人事件だった。被害者は三人で、いずれも若い女性。じつは犯人が殺したかったのはその中の一人なのだが、その女性だけを殺せば動機から自分一人が疑われることになると思って後の二人も殺したという、異常というか、非現実的というか、とにかく残酷な事件だった。  この時の犯人というのが、この村一番の旧家で富豪である龍神家の未亡人だ。美しく、物静かで、慈善事業に寄付などをしているぐらいの人物だから、到底殺人などはできそうに思えない。しかし私は事件直後から、この未亡人が怪しいと感じていた。だからこそ読者の皆さんの目に触れる範囲内では、決して彼女を疑うような素振りは見せなかった。そして陰では科学捜査の限りを尽くし、彼女が犯人だという確証を着々と得ていったのである。もちろんこの部分は読者には見せない。読者の前では相変わらず田舎の年寄り巡査を叱咤《しった》し、現実にはいるはずのない、二十年前に行方不明になった殺人鬼を探すふりなどをするわけである。不気味な伝説に、ちょっと怖がってみせたりもする。  やがて科学捜査が実り、真相が判明すれば後は楽だ。思いきって行動できる。まず見え見えの動機を持つ、いかにも陰気な男を逮捕して締めあげる。いずれ無実の証拠が出てくるから、今度は女たらしの若い男を逮捕だ。これまたそのうちに釈放せざるをえなくなり、私は腕組みをして、 「いったいどうなっとるんだ。今度の事件はとても手におえんぞ」  と、いつもの台詞を吐くわけだ。  こちらがそういう手順を踏んでいる間に、真打ち的存在の天下一探偵が着々と捜査を進めていく。  妬《ねた》むわけではないが、彼の役はいい。彼は自分の思ったとおりの行動をとればいいし、本気で手がかりを探し、試行錯誤して真相を究明すれば、それがそのまま小説のストーリーになる。たまに全く手がかりを得られずに困っている時があるが、そういう時は私がそれとなく情報を流してやるのだ。  ただし彼にも少しだが制約がある。それは仮に途中で犯人がわかっても、最後の殺人が起こるまで、とぼけていなければならないという点である。物語を盛り上げるために、どうしても我慢しなければならない。  昨今は読者の皆さんも深読みになってきて、少々意外な犯人でも、ちっとも驚いてくれない。いやむしろ細かい推理なんかはそっちのけで、「犯人として最も意外なのは誰か?」という目で登場人物を見るから、かなり高い確率で的中してしまう。そういう読者にかかれば、先に述べたような龍神家の未亡人などは、一番怪しいということになるだろう。そういう状況の中で、私にしても天下一探偵にしても、彼女が犯人だとは夢にも思っていないという顔をして行動しなければならないのだ。これは結構間の抜けた話である。読者はいらいらするだろうが、こっちだって恥ずかしい。それでも天下一探偵は、最後には謎を解くわけだから立つ瀬もあるが、私のほうは最後まで、 「いやあ、あの美しい人が犯人だとは、夢にも思いませんでした」  などといってなければならないのだ。  かようにこの脇役には辛いものがあるのだが、しかしそれも今日で終わることになりそうである。  思えば長い間脇役を続けてきたものである。これまでに遭遇した難事件のことは、目を閉じると昨日の出来事のように脳裏に浮かぶ。  最初に思い出されるのは、やはりあの密室殺人事件だ――。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第一章 密室宣言――トリックの王様 [#改ページ]  極めてありがちな出だしで恐縮だが、電話が鳴った時、私はまだ布団の中にいた。黒い受話器を耳にあてると、当直刑事のうろたえた声が耳に飛びこんできた。 「警部、事件であります。奈落村で殺人事件が起きました」 「なにいっ」私は布団をまくりあげた。  奈落村というのは、山奥の、さらにまた奥の奥まで入っていったところにある村である。私は部下を引き連れ、ジープに乗って村に向かった。道が舗装されていない上に、昨夜降った雪が積もっている。車が到着するまでの間に、私は数えきれないほど頭を天井にぶつける羽目になった。  私たちを出迎えてくれたのは、よぼよぼの巡査だった。手を変な具合に上げているので何をしているのかと思ったら、敬礼のつもりらしい。聞くところによると、村にいる巡査はこの爺さん一人だという。これでは無法地帯ではないか。今まで事件が起こらなかったことが奇跡だ。  爺さんの案内で現場に直行した。そこにはすでに村人たちが野次馬となって集まっている。彼等は私たちを見ると、後ずさりした。 「おお、警察の人がお見えになった」 「これでもう大丈夫だ」 「きっとあの人が一番偉い人だぞ。鼻の下に髭を生《は》やしておられるし、いかにもこわそうな顔だ」村人の一人が私を見て囁《ささや》くのが聞こえた。いい気分である。 「さあさあ、開けて開けて」何十年間も事件らしい事件に遭遇しなかった爺さん巡査も、一生に一度の晴れ舞台とばかりに張り切っている。  野次馬の間を抜け、我々は現場を一望した。そして思わず、おうと声を上げた。  それはまさに本格推理の眺《なが》めだった。  広々とした田んぼが雪で覆《おお》われている。その上に足跡が点々と残されていた。よく見るとその足跡は、何人かが行き来した跡のようだった。そしてその足跡の先に、古びた平屋が二軒、並んで建っていた。  私は内心うんざりした。またあれか、という嫌な予感がしたからだ。 「死んでいたのは、左側の家に住んでいる作蔵という男です」爺さん巡査がいった。「それを見つけたのが、右側の家に住んでいる鉄吉です」 「足跡をつけたのは誰だ」と私は訊《き》いた。 「ですから、まず鉄吉です。死体を見つけて、びっくりして誰かに知らせるため、雪の上を通ったんです」 「その後は?」 「自分と鉄吉であります」爺さんは、なぜか胸をはった。「鉄吉の知らせを受けて、事実を確認するために雪の上を歩きました。たしかに鉄吉のいうとおりでした。で、また二人で戻ってきたわけです」 「するとのべ五人の足跡が重なっているわけか」  爺さんはずいぶん長い間考えこんでから、 「そうであります」と答えた。 「鉄吉というのはどこにいる?」 「ええと、たしかそこに……ああ、いましたいました」  顔中髭だらけの、熊みたいな男がのっそりと歩み出た。 「よし」と私は部下を見た。「では現場に踏みこもう。鉄吉、一緒に来るんだ」 「ちょっと待ってください」その時野次馬の中から声がした。よれよれスーツにもじゃもじゃ頭という変な格好の男が、ステッキを持って現れた。このシリーズの主人公、天下一大五郎だ。私はため息をついた。 「また君か。なぜこんなところにいる?」 「お久しぶりです、大河原警部。じつは僕の友人がこの村にいましてね、昨夜結婚式があったのですが、それに招待されていたのです」 「ふうん、そうか。しかし素人探偵の出る幕ではない。引っ込んでいなさい」私はお決まりの台詞《せりふ》をいった。名探偵ものの中には、脇役の警察官が進んで探偵の協力を求めるという、どこの世界にこんな警察があるものかというようなパターンもあるが、この天下一探偵シリーズは一応そうではないのだ。 「捜査の邪魔はしませんが、ひとつ教えて下さい。鉄吉さんが通るまで、雪の上に足跡はなかったのですか」  私は鉄吉を見た。彼は首をふった。「なかったですだ」 「ふうむ、ということは」天下一は腕組みした。 「まだだぞ」と私は彼に耳うちした。「この時点では、まだ『あれ』と決めつけるわけにはいかない。雪が降る前に犯人が逃げだしたなら、足跡は残らないからな」  すると天下一は少し拗《す》ねた顔をした。 「僕はまだ何もいってませんよ」  まあまあと私は彼の肩に手を置いた。 「君の気持ちはわかっている。大丈夫、この天下一シリーズにトリックが出てこないはずがない。私の勘《かん》では、今回の謎は十中八、九、『あれ』だよ。まだこのあとにとっておきの謎が出てくるはずだ。その時こそ、『あれ』だと大声でいえばいい。君の大好きな『あれ』だとね」 「僕は別に『あれ』なんか好きじゃないです」天下一はむくれた。「あんな過去の遺物を好きな探偵なんかいません」 「またまた。無理しなくていいんだよ」 「本当です」  天下一がむきになった時、部下がやってきた。「あの、警部そろそろ行きませんと」私はあわてて探偵から離れた。咳《せき》払いをひとつ。 「あー、とにかく捜査の邪魔をせんようにな」 「わかっています」天下一も作り笑いをして頷《うなず》いた。  作蔵の家の玄関の戸は壊れていた。私は傍らに心張り棒のようなものが落ちているのを横目で見ながら、敢《あ》えてそれには触れずに奥に進んだ。作蔵は火鉢の横で倒れていた。頭が割られていて、すぐそばに血のついた薪《まき》割り斧《おの》が落ちていた。火鉢にあたっているところを背後から襲われたと思われる。  目をひいたのは、近くの壁に塗られた血の跡だ。飛び散ったというより、作為的に塗りつけた感じだ。 「鉄吉」と私は呼んだ。「発見した時の模様を、詳しく説明してみなさい」  鉄吉は、ぼそぼそと話し始めた。それによると、彼は今朝六時に作蔵を呼びに来た。冬場は二人で炭焼き小屋に行くのが日課になっているからだ。ところが戸が開かない。呼んでも返事がないので、横に回って窓から覗《のぞ》いてみた。すると作蔵が頭から血を流して倒れていたというわけだ。 「ちょっと待て」と私は天下一の方をちらちら見ながらいった。「なぜ戸が開かなかったんだ?」 「作蔵は寝る前には、きちんと戸に棒をかましておきますだ。泥棒なんか、この村にはいねえけど」 「心張り棒か」  私は入り口に戻ると、今初めて気づいたように棒を拾いあげた。「なるほどこれをかましてあったわけだな」 「鉄吉に呼ばれて私が来た時も、やっぱり戸は開きませんでした」爺さん巡査がいう。「それで二人して体当たりして、戸を破ったわけです」  さあ、いよいよだ。 「この家には他に出入り口はないのか」わかりきったことを私は訊いた。 「ありません」と爺さんが答えた。 「おいおい、それはおかしいじゃないか。心張り棒は内側からしかかませられない。ということは、あんたたちが入った時、犯人が中にいたことになる」すると爺さん巡査と鉄吉は、揃《そろ》って大きく目を開いた。 「それはありません。私と鉄吉でよく調べました。だいたいこんな小さな家で、隠れるところなんぞ、ありやしません」 「しかし、それじゃおかしい」 「おかしいといわれても、どうしようもありませんです」  沈黙が我々を支配した。ここで口を開くのは誰の役目か、皆が承知しているからだ。私は天下一を見た。が、なぜか奴は仏頂面をしている。  私は彼の横に立ち、耳元で囁いた。 「ほらほらどうした。名探偵の大好きな状況じゃないか。あの宣言をするんだろ。やるなら早くやってくれ」 「別にやりたいわけじゃないですよ」 「わかったわかった。何でもいいから早く済ませてくれ。あのワンパターンで、厚顔無恥な宣言を」私は元の位置に戻り、天下一に日で合図した。奴は膨《ふく》れながらも、一歩前に出た。 「警部、そして皆さん」  全員の視線が集まる。奴は一瞬泣きそうな顔になったが、それをぐっとこらえると、半ばやけくその口調でいった。「これは完全な密室殺人事件です」  ええーっと全員がわざとらしく口を揃えていう。  かくして密室宣言はなされた。  私が天下一シリーズの脇役を務めて、もう何年にもなる。  辛いことはいくつもあるが、最近頭の痛いことの一つに密室トリックがある。これが出てくると、正直いって気が重くなる。ああ、またかという気持ちになる。  もういいじゃないか今日び誰もこんなもの喜んだりせんぞと思うのだが、何作かに一度はこのトリックが出てくるのだ。  閉ざされた部屋での殺人というオーソドックスなものから、無人島を舞台にしたもの、宇宙空間での事件――こんなものに出会ったことはないが――など、いろいろとバリエーションはあるが、結局は『密室』である。そのたびに名探偵が密室宣言をし、我々脇役は驚いたふりをする。  本当は少しも驚いていない。  同じ手品を何度も何度も何度も何度も見せられている気分である。違うのは種明かしだけだ。そして種明かしが違っても、驚きには繋《つな》がらない。美女が空中に浮かぶという手品を、種が違うからといっていくつも見せられたって飽きるだけである。ところが『密室』は性懲《しょうこ》りもなく出てくる。  いったいなぜなんだろうか。  私は機会があれば読者の皆さんに伺ってみたいと思っている。あなた、本当に密室殺人事件なんか面白いんですかい。  残念ながら読者の声は聞こえないが、「面白くない」といっているように思う。登場人物である我々が飽きているのだから、金を出して読んでいる人たちが満足しているはずがないのだ。  このことに、いったい誰が気づいていないのだろうか。  全く不思議な話である。  事件発生から数時間後、私は鉄吉を捕まえて派出所で締めあげていた。 「さっさと白状しろ。おまえがやったことはわかっているんだ」 「おら、何もやってねえ」 「とぼけるな。おまえと作蔵がこのところ喧嘩ばかりしていたことは、村の者なら誰でも知っているんだ。田んぼと畑の境界問題でもめてたそうじゃないか。どうせ、かっとなって殺したんだろう」 「知らねえ、やってねえ」  そこへよぼよぼ巡査がやって来た。 「警部、村の者が崇《たた》りだといって騒いどります。どう説明したらよいでしょうか」 「崇りだと?」 「はあ、それで壁神《かべかみ》の屋敷に皆で押しかけるというております。警部さんの方から、村の者に話していただけませんか」 「壁神家というのは、昨夜祝言の行われた家だな」  そしていうまでもなく村一番の旧家で大富豪だ。そこの一人息子辰哉が、隣村の花岡君子という小学校の女教師を嫁に貰ったのである。天下一探偵の友人というのは、この壁神辰哉らしい。 「なぜ皆が壁神家に押しかけねばならんのだ」 「はあ、じつはこの村には、庄屋の息子が他村の娘と結婚すると壁の中から化神が現れて村人に崇るという、妙ないい伝えがありますです」 「壁の中から?」  それで壁神かと合点したが、馬鹿らしいので口には出さないでおいた。 「作蔵というのは花嫁の遠縁にあたる男で、そもそも二人の仲をとりもったのが奴だったらしいんですな。で、今度の祝言に腹を立てた壁の化神が、作蔵に崇って殺したと……村の者はこう考えておるわけです。このままじゃいつ自分たちにも崇りがあるかわからんから、壁神家に行って祝言をなかったことにしてもらおうというのが奴等の言い分です」 「なんとまあ、くだらん迷信を信用しおって」私は失笑した。 「崇りだ、そうに違えねえ」ところが鉄吉までもが、唸《うな》るようにいい始めた。「警部さんも見ただろ。作蔵の家の壁に、べったりと血が塗られていた。あらあ、壁神様の崇りだ」 「馬鹿なことをいうな。おまえ、自分の犯罪をごまかすため、そんなことをいってるんだろう」 「そうじゃねえ」 「くだらん、崇りなんかあるものか」 「けど警部さん」爺さん巡査が口を挟んできた。「もし鉄吉がやったんなら、返り血を浴びとるはずじゃないですか。けどあの時鉄吉の着物に血はついてなかったです」  年寄りのくせに小癪《こしゃく》なことをいうので、私は少しうろたえた。 「そんなもの、着替えれば何とでもなる。だからその、これから鉄吉の家を捜索するつもりだ。血のついた着物が出てくるに違いない」 「そんなもの出るわけねえ、おらじゃねえ」鉄吉はわめいた。 「だいぶ苦労しておられるようですね」ここへふらりと登場したのが天下一探偵だ。もじゃもじゃ頭を厨きむしり、にやにや笑っている。 「ふん」と私は鼻を鳴らした。「素人探偵に用はない」いつもの台詞である。 「まあ、そういわないで下さい。僕は鉄吉さんを弁護しに来たんです。大河原さんが鉄吉さんを逮捕する理由はよくわかりますが、それでは真犯人の思うつぼです」 「俺がなぜ鉄吉を捕まえたか、わかっているのか」 「もちろんです。あの第一の……第一の密室から抜けられるのは、鉄吉さんしかいないと考えたのでしょう?」  密室と口にする時、彼は少し照れくさそうな顔をした。 「第一の密室?」私は聞き返した。私だけでなく、老巡査や鉄吉もきょとんとしている。 「雪のことですよ」天下一はじれったそうにいった。「駐在さんが駆けつけた時、雪の上には鉄吉さんの足跡しかなかった。他に犯人がいるならば、どうやって足跡をつけずに脱出したか。まさに……まさに……ええと、密室です」 「そのことか」私はようやく納得した。「その点については別に問題ない。死亡推定時刻を割りだしたところ、作蔵が殺されたのは雪の降る前だ。だから犯人の足跡が残っていなくても不思議ではない。俺が鉄吉を捕まえたのは、動機があるからなんだ」 「雪の降る前……ああ、そうだったんですか」天下一は拍子抜けした顔をした。それから気を取り直すように咳払いをした。「しかしあっちの方は依然謎のままでしょう。作蔵さんの家は、入り口の戸に内側から心張り棒をかましてありました。その状態で犯人はどうやって脱出したのか。これこそまさに、何というか……」 「密室だろ」 「そうです」天下一は頷いた。  私は顎をこすった。 「そういえば、そういう謎もあったな」 「そういう謎って……これが今回の物語のメインなんです。大河原さんも、もう少し大袈裟《おおげさ》に扱ってください」 「そういわれてもな」私は苦笑いした。「この歳になって、密室密室と騒ぐのも恥ずかしいのだ。君に任せよう。どうせ最後は君が解決するんだから」 「そんな無責任な」天下一は情けない顔をした。「そりゃあ仕方がないから、最後は僕が引き受けます。でもそれまでに盛り上げてくれないと、僕だってやりにくいじゃないですか」 「その気持ちはわかるが、今どき密室で盛り上がれというのも酷な話だな」 「文句いわないで下さい。僕が一番辛いんです」 「そんなに幸いか?」 「当たり前です。密室の謎解きなんて……ああ、やりたくない。またミステリマニアや書評家に馬鹿にされる」天下一はおいおい泣きだした。 「泣くなよ。わかったわかった、いうとおりにする」私は態勢を立て直すと、口調を変えていった。「うむ、もちろん密室についてはこれから考えるつもりだ。とにかく、あー、何というか、密室は大きな謎だからな」恥ずかしさのあまり、全身から冷汗が出た。 「そうです、大きな謎です」天下一もさっと姿勢を正していった。「密室の謎を解くことこそが、真相解明の早道なのです」 「そういう君は、何か掴《つか》んでいるのかね」  私が訊くと、天下一はステッキで床をこつこつと叩いた。 「ある程度は」 「じゃあそれを教えてくれ」 「いえ、まだです」彼は掌《て》を出した。「まだお話しする段階ではありません」  本当はここであっさりしゃべってくれれば事件が簡単に解決するのだが、それでは話が続かないので、このようにごまかすわけである。私もくどく問いつめたりしないことになっている。 「そうか、それでは仕方がないな」 「それより大河原さん、これから壁神家に行きませんか。ちょっと調べたいことがあるのです」 「ふん、まあよかろう」  私は鉄吉をそのままにして派出所を出た。素人探偵と馬鹿にしているはずなのに、こんなふうに警部が突然協力的になったりするのが、この天下一シリーズの特徴のひとつである。御都合主義などといってはいけない。こうしないと話が進まないのだ。  壁神家に行くと、なるほど村人たちが押しかけている。我々は彼等をかきわけて屋敷に入った。  壁神家の当主は、小枝子未亡人である。若くて、美人で、結婚するような息子がいるとはとても思えない。それもそのはず、先代当主の後妻ということだった。 「いやあこのたびは、せっかくのめでたい祝言にケチがついてしまいましたなあ。しかしお気になさらんように。我々が、いえこの私がすぐに犯人を捕まえてみせます」 「どうかよろしくお願いいたします」未亡人は丁寧《ていねい》に頭を下げた。「私は村の人から何をいわれてもかまいませんが、好きあって結婚した若い二人がかわいそうですから」 「いや、そのお気持ち、よくわかります」私は何度も頷いた。  この時点で読者の皆さんは、この女が怪しいなと睨《にら》んでおられるかもしれない。古典的推理小説のパターンとして、女を見たら犯人と思えというのがあるが、まさにそのタイプである。そんなことは私にだってわかっているが、役柄上、彼女を疑うわけにはいかないのだ。  小枝子未亡人のあとは、昨夜嫁に来たばかりの君子に会った。こちらもなかなかの美人だ。殺された作蔵とは遠縁にあたるという話だが、あまり暗いようすはない。 「作蔵さんの家に何か抜け穴のようなものはなかったですか」天下一がいきなり訊いた。 「抜け穴? いいえ」彼女は首をふった。「なぜですか?」 「じつは作蔵さんは」天下一は大きく息を吸うと、「密室状態で殺されたのです」と思いきり芝居がかった口調でいった。 「みっしつ」君子は戸惑ったような顔をしてから呟いた。「みっしつって、何ですか?」  天下一は大きくのけぞった。「密室を知らないのですか?」 「ごめんなさい、勉強不足で」  天下一はぶつぶつ文句をいいながら、密室について講義した。 「なあんだ、そんなこと」説明を聞き終えると、君子は鼻で笑った。「そんなこと、別にどうだっていいじゃないですか」  天下一のこめかみに血管が浮いた。 「密室の謎を解かなければ、真相がわからないのです」 「ああら、そうかしら」君子は意外そうな顔をした。「そんなもの、後回しでもいいんじゃないかしら。犯人を捕まえてから、どうやって密室にしたのか聞き出せばいいんだわ。あたしは特に聞きたくもないけど」  私は横で聞いていて、舌打ちをしたくなった。これだから若い女は困る。ところが君子は無神経に続けたのだ。 「だいたいトリックで読者の気をひこうという考えが時代遅れよ。密室の謎ですって? ふふん、陳腐すぎて笑う気にもなれないわ」  天下一の頬はひきつったままだった。  物語はどんどん進み、終幕に近づいた。すでにこの村では四人の被害者が出ている。捜査が後手後手に回るのは、いつものパターンだ。  私は今までに鉄吉を含めて三人の人物を捕まえている。どこから見ても犯入らしくない人物や、明らかに読者をミスリードするために登場してきたような人物ばかりだ。そして当然行きづまり、私は例の決まり文句を吐いている。「今度の事件ばかりは、とても手におえんぞ」という台詞だ。  そしていよいよ天下一の謎解きである。  壁神家の広間に主だった人間が集まることになった。私も当然出席するわけだが、ここで厄介なことが起きた。  天下一がゴネだしたのである。謎解きなんかしたくないというのだ。 「今さらそんなこというなよ。皆待っているんだ」と私はなだめるようにいった。「読者だって待っている」 「じゃあ犯人当てだけやります。それでいいでしょう」 「おいおい、それは無茶だ。今回の謳《うたい》文句は密室殺人事件ということになっている。密室の謎解きをしてくれなきゃ、読者が承知しないぜ」 「嘘だ」と彼はポケットに手をつっこみ、地面を蹴った。「読者だって、密室なんかどうだっていいと思っているに決まってる」 「そんなこと思ってないって。さあ早く中に入ってくれ。主要登場人物たちが、いらいらしているぞ」 「あの人たちにしても、ひどいじゃないですか。調査の途中で、僕が密室という言葉を口にするたびに、クスクス笑いだすんですよ。『密室はトリックの王様だ』と僕がいった時には、巡査の爺さんなんか露骨に吹きだしたんですから」 「そんなこといったのか」 「いいました」  そら吹きだすわなといいかけたが、やめた。 「とにかく今日のところは我慢して謎解きをしてくれ。皆にも、静粛《せいしゅく》に聞くよういっておくから」 「読者が本をほうりだしたって知りませんよ」 「わかった、わかった。じゃあ待っているからな」  私は部屋に入ると、がらりと態度を変えた。胸を張り、横柄な態度で腰を下ろした。そして周りを見渡していう。「ふん、素人探偵が何をやろうというんだ」  そこへ天下一が入ってきた。全員の視線が彼に集まる。 「さて、皆さん」といういつもの台詞を彼はいった。「今度の事件についての僕の推理を述べさせていただきます」  天下一の話は、作蔵の後に殺された三人のことから始まる。いろいろと説明がつくが、要するに三人は犯人を知っていて、それをネタに恐喝しようとして殺されたのである。 「では作蔵さんはなぜ殺されたか。彼はある人物の秘密を知ってしまったのです。その秘密とは、その人がかつて遊女屋で客をとっていたということでした。それを隠すため、その人物は壁神の崇りに見せかけて作蔵さんを殺すことを思いつきました。それがつまり壁に塗られた血であり、出入り不可能な状況――」  彼がそこまでいいかけた時、部屋の隅にいた小枝子未亡人が、何か口に含んだ。あっと思った時にはすでに遅く、彼女は口から血を吐いていた。 「かあさん」息子の辰哉が駆け寄って抱き起こした。「かあさん、何をするんだ」 「辰哉……さん。ごめん……なさい」小枝子未亡人は息絶えた。 「かあさん、かあさんが犯人だったのか」 「おう、なんということじゃ」 「悲しいことよのう」 「まさかあの人が犯人とは」  村人たちが口々に嘆きの言葉をいう。泣きだす者もいて、室内は騒然とした。私は、はっとして横を見た。天下一が呆然《ぼうぜん》と立っていた。謎解きの途中で犯人に自殺されてしまったため、間の抜けたことになってしまった。 「大河原さん」彼はぼんやりしたままいった。「帰ってもいいですか」 「だめだ」私は彼のズボンの裾を掴んだ。「密室の謎解きをやってからだ」  天下一は半泣きになった。「こんな状態でやれというんですか」 「仕方がない。さっさと済ませてしまえばいいんだ」  彼は情けない顔で村人たちを見回した。相変わらず、各自勝手な行動をとっている。 「では皆さん、ここで密室の謎を説明いたします」彼はようやく腹を決めて話しだした。が、誰も聞いていない。婆さんが一人こちらを向いたが、ちんと洟《はな》をかむと、またあっちを向いてしまった。 「あの夜はすごい雪でした。じつはその雪にこそ秘密が隠されていたのです。犯人は、大雪になることを予想して、あの夜を選んだのでした」 「ちょっと何かしゃべってるわよ」 「探偵役のやつだ。密室がどうとかいってるぞ」 「なあんだ。それならいいわ」 「それより遺体を運ぼう」  青年団の連中が小枝子の遺体を運び始めた。それにつられて、ぞろぞろと皆帰りだす。 「作蔵さんの家は、かなり老朽化していました。屋根に雪が積もると、家全体が歪んでしまうほど老朽化していたのです」天下一は怒鳴っている。聞いているのは私と巡査の爺さんだけだ。じつは爺さんも帰りたそうなのだが、私が腕を掴んでいるのだ。 「そうです。密室を作りだしたのは雪だったのです。雪の重みで家が微妙に歪み、その結果玄関の戸が開かなくなったのでした。そして犯人はそのことを計算に入れていました。だからあたかも心張り棒をかませてあったかのように、棒を戸のそばに置いていったのです。これが……これが密室の真相です」  天下一が話し終えた時には、ほかには誰もいなくなっていた。 「ううむ、そうであったか」私はとりあえず唸ってみせた。「そこには気づかなかった。今回もまた君に一本とられたようだな」私は巡査の爺さんを肘《ひじ》でつついた。おまえも何かいえという合図だ。爺さんはゆっくりと天下一を見上げた。 「あのう。要するに戸口がかしいで開かなかったということですか」 「まあそうです」 「ははあ……」  嫌な予感がした。この爺さん、変なことをいうんじゃないだろうか。と思っているうちに、禁断の一言を漏《も》らしてしまった。 「で、それがどうしたんですか」 「どうしたって……だから……」  じっに気まずい沈黙の後、天下一はわっと泣きだしてしまった。  やれやれ全く処置なしだ。  古臭い謎を読まされる読者も気の毒だが、謎解きしなければならない探偵だって、なかなか幸いのである。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第二章 意外な犯人――フーダニット [#改ページ]  牛神邸で殺人事件が起きた、という知らせが朝一番に入った。  そこで例によって、県警本部捜査一課の警部である私、大河原番三の登場となったわけである。もっとも、だからといって私が事件を解決するわけでないことは、読者の皆さんだって御存じのはずだ。これから会う事件関係者だって、そんなことは期待していないだろう。  牛神邸は、山奥に建てられた北欧風の一軒家だった。殺された牛神貞治は有名な油絵描きということだが、私はその名を知らなかった。  我々が駆けつけると洋風の居間に五人の男女が集まっていた。 「何だ、あの連中は」高価そうな革ばりのソファに腰かけた五人を横目で見ながら、私は地元の巡査に尋ねた。 「昨夜、この家にいた者たちです。一人はお手伝い、二人は牛神貞治の親戚、また二人は貞治の弟子で、残る一人は」そこまでいって若い巡査はきょろきょろした。「あれ、もう一人がいない」 「まだいるのか」 「はい。それが妙な男でして」 「まあいい、それは後だ。まずは現場を見てみよう」  牛神貞治はアトリエで殺されているということだった。アトリエは離れにあり、母屋とは渡り廊下で繋《つな》がっている。  巡査の案内でアトリエに入ると、部屋の中央で死体が横たわっていた。が、それよりも私の気を引いたのは室内の状況だった。窓ガラスは全て割られ、その破片が床に飛び散っている。窓だけではない。戸棚のガラス戸も叩き割られていた。さらにイーゼルの上のキャンバスはずたずたに切り裂かれて、そこに何が描かれていたのか、もはやわからない状態になっていた。 「これはどうしたことだ。まるでここだけ台風が通り過ぎたみたいじゃないか」  私がそういって頭に手をやった時、部屋の隅のほうで物音がした。見ると、キャンバスが何枚も置いてある中で、よれよれのチェックのスーツを着た男がごそごそ動いていた。 「おい」私は男の背中に声をかけた。「ここで何をしている。関係者以外立入禁止だぞ」  男はくるりとこちらを向いた。「やあ、これは大河原警部。ごくろうさまです」 「あっ、き、君は」わざとらしく私は吃《ども》った。男は天下一大五郎、この作者の小説には必ず登場する探偵である。「なぜ君がこんなところにいるのかね」 「じつは被害者から、ある調査の依頼を受けていたのです。それで昨夜から、こちらに厄介になっていたというわけで」  どうやら巡査がいっていた妙な男というのは、こいつのことらしい。 「被害者というと牛神貞治からか。何の調査だ?」 「依頼内容を明かさないきまりですが、この場合仕方がないでしょう。牛神画伯は、自分が何者かに命を狙われているようなので、犯人を調べてほしいといってこられたのです」 「なに? それは本当か」 「嘘をいっても始まらないでしょう」天下一は持っていたステッキをぐるぐる回した。 「どんなふうに狙われたんだ」 「一度目は昼寝をしている時に、首を絞められかけたのだそうです。苦しいのでもがいて目を覚ますと、すでに犯人はいなかったとか。二度目は毒薬です。コーヒーに砂糖を入れようとしたところ、中に農薬が混じっていることに直前で気づいたそうです。光の反射の具合が違っていたので、わかったということでした。農薬は、園芸用として物置に保管してあったものです」 「そういうことがあったなら、なぜ警察に連絡してこなかったのだ。素人探偵なんぞに頼むから、命を落とすことになるんだ」私は死体を見下ろして怒鳴った。 「画伯は警察にもいったそうですよ。でも警察は実際に事件が起きないかぎりは、なかなか腰を上げてくれないので、僕のところに来たとおっしゃってました」 「ううむ……」  天下一の言葉に私は苦々しい顔をしてから、そばにいた部下たちにいった。「おい、何をぐずぐずしている。早く死体を調べるんだ」  牛神貞治は絵の具だらけの仕事着姿で、仰向けに倒れていた。その胸にはナイフが刺さっている。そのほかに外傷はなし。 「警部、これを」部下が床から拾いあげたのは、四角い置時計だった。これもまた表面のガラスが割られている。針は六時三十五分を指したところで止まっていた。 「ということは、犯行時刻もこの頃か。いやいや、犯人の擬装《ぎそう》ということも考えられないこともない。――死体を発見したのは誰だ」  私は部下の刑事に訊いたのだが、 「最初に見つけたといえば、お手伝いのヨネさんです」と天下一が横から答えた。 「でも、屋敷にいた全員が発見者といえないこともないでしょうね」 「どういうことかね」 「六時半頃、ですから、その時計が壊された頃、屋敷中にものすごい叫び声が響き渡ったのです。牛神画伯の声のようでした。さらにガラスが割れるような音もたて続けに聞こえました。それでまだ布団の中にいた僕なども飛び起きたわけです。他の人々も続々と部屋から出てこられました。そのうちに今度はヨネさんの悲鳴が聞こえ、我々はこのアトリエへ来たわけです。そうして死体を見つけました」 「ふん、そういうことか」私は鼻の下の髭を撫でながらしばらく考え、やがて部下にいった。「よし、とにかく関係者から話を聞こう。一人ずつ順番にここへ連れてこい」  はっ、と返事して部下は母屋へ行った。その部下の後ろ姿を見送ってから、私は天下一のほうを振り返り、にやりとした。 「どうやら今回の事件は、犯人探しのみに力を入れてあるようだな。現場も密室ではなさそうだし」 「その点はほっとしました」天下一も口元を緩《ゆる》めた。「また密室だったらどうしようと思っていたんです。このアトリエの扉に鍵がかかっていなかったと知って、胸をなで下ろしましたよ」 「容疑者は五人か。まあ建前からすれば君のことも疑わねばならんのだが、いくら何でもシリーズ探偵を犯人にするわけにはいかんからな」もしそんなことをしたら読者が怒るだろうなと思いながら私はいった。 「大河原さんは外部犯の可能性も検討されるわけでしょう?」天下一は目にからかうような光を浮かべた。 「やむをえんだろうな。こういう事件が起きた場合、外部犯を検討しない警察はないわけだから」  こんな設定の探偵小説で、犯人は外からの侵入者でした、なんてことはまずありえないのだが、的外れな捜査を延々と繰り返すのが、この天下一探偵シリーズにおける私の役回りなのだから仕方がない。 「ううむ、それにしても容疑者がたったの五人とはなあ」天下一はもじゃもじゃ頭を掻きむしった。「これだけ限られた範囲で、読者の意表をつくのは簡単なことではないぞ。一体作者はどうするつもりなんだろう」 「まさか、自殺でしたなんてことはないだろうな」私は不安を口にした。 「まさか」天下一もいい、それからちょっと眉をひそめた。 「どうした?」 「いえ、今何となく作者が顔色を変えたような気がしたものですから」 「おいおい、冗談じゃないぞ」  私が狼狽《ろうばい》した時、部下の刑事が関係者の一人を連れてきた。私と天下一は即座に小説世界に戻った。  部下が連れてきたのは、殺された牛神貞治の従弟《いとこ》にあたる馬本正哉という中年男だった。本人によると、外国製晶の輸入を手がけているブローカーということだが、まともに仕事をしているのかどうかは怪しい雰囲気だった。 「何がどうなったのか、私にはさっぱりわかりません。昨日まではあんなに元気だった貞治さんが、突然こんなことになるなんて……。えっ、心当たりですか? そんなもの、全然ありません。誰があんなに良い人を殺そうとするでしょう。犯人はたぶん金目当てで忍びこんだ強盗です。そうに決まっています。刑事さん、どうか一刻も早く逮捕して下さい。お願いします」こういって正哉はおいおいと泣いた。いや、泣いたというのはあまり適切ではない、始終ハンカチを目にあてているのだが、それは少しも濡れているように見えなかったからだ。  このあと残りの関係者からも事情聴取した。それをだらだらと書いても読者が混乱するだけだろうから、探偵小説の最初の頁によく書いてある、「主な登場人物」という欄を持ってくることにしよう。  主な登場人物 牛神貞治(六〇)  油絵画家。牛神邸の主人。独身で、莫大な財産を持っている。 馬本正哉(四二)  自称海外雑貨ブローカー。貞治の従弟で、牛神邸に住まわせてもらっている。 馬本俊江(三八)  正哉の妻。 虎田省三(二八)  貞治の弟子。牛神邸に下宿。 竜見夏子(二三)  貞治の弟子。牛神邸の近くに一人暮らし。 犬塚ヨネ(四五)  牛神邸のお手伝い。 大河原番三(四二)  県警捜査一課警部。 鈴木(三〇)山本(二九)  刑事と巡査。 天下一大五郎(年齢不詳)  名探偵。 「わははははは」  登場人物表を見て、私は思わず笑いだした。単なる刑事や巡査まで書いてあるのも失笑ものだが、何より傑作なのは天下一のところだ。  名探偵。  ぶわっはははは。いーっひひひひ。  人物紹介で、名探偵ってことはないだろう。探偵だけでいいじゃないか。書くなよ、恥ずかしい。何を考えているんだ、この作者は。  牛神邸の応接室で私が涙を流しながら笑っていると、鈴木刑事がやってきた。 「警部、犬塚ヨネを連れてきました」  私はさっと真顔に戻った。「よし、中に入れろ」  鈴木に促され、ヨネが入ってきた。青白い顔をうつむき加減にしている。 「あんた、これにはもちろん見覚えはあるね」そういって私が取り出したのは、砂糖入れだった。中にはグラニュー糖が入っている。ヨネは黙って頷いた。 「これに毒が入れられていたことは知っているかね。毒というのは農薬だ」  ヨネは目を剥《む》いて驚きの表情を見せた。 「そんなこと、全く存じません」 「そうかな。本当にあんたは知らないのかな。これはふだんどこに置いてある? 台所だろう? すると最も毒を入れやすいのは、いつも台所にいるあんただということになるのだがね」 「そんな……わたし、知りません。わたしが旦那《だんな》様を殺すなんて……そんな……そんな恐ろしいこと……」ヨネは顔をぶるぶると振り、身悶《みもだ》えした。 「では訊くがね、今朝牛神画伯の叫びが聞こえた時、あんたはどこにいた?」 「部屋です。自分の部屋です」 「ほう、それを証明できるかね」 「証明って……それはできませんけど」 「だろう? ところがね、あんたを除く全員は、叫びが聞こえた直後に自室を出て、それをお互いに目撃し合っている。つまりアリバイがあるわけだ」 「わたしだって、叫び声を聞いてから部屋を出たんです。それでアトリエに行き、旦那様のむごい姿を見て悲鳴を上げたのです」 「果たしてそうかな。画伯を殺した後、さもたった今来たかのように悲鳴を上げたんじゃないのかね」 「違います、違います、わたしじゃありません」ヨネは泣きだした。  私はため息をつき、泣いたってごまかされんぞという表情を作った。しかしもちろん心の中では、この女が犯人であるはずはないと確信じている。だからこそこうして責めることができるのだ。こういう探偵小説において我々脇役が一番気をつけねばならないことは、決して名探偵よりも先に真犯人をあげたりしないということだからだ。天下一探偵が真相に達するまでは、見当はずれな捜査をして時間を稼がねばならない。  このヨネが犯人でないと確信できる根拠はいくつもある。まず第一に美人でない。犯人が女の場合、美人という設定にしたくなるのは作家の本能みたいなものなのだ。次に過去がはっきりしている。これでは隠された動機というものを、後で出してきにくい。そして名前だ。ヨネという名前は、どう考えても犯人にはふさわしくない。  泣きわめくヨネを前に苦りきっていると、ドアをノックする音がした。入ってきたのは天下一だった。 「ヨネさんは犯人ではありません」探偵はいきなりいった。 「なんだ君は。素人探偵の出る幕ではない。引っ込んでいなさい」こういう場合のいつもの台詞を私はいった。 「まあ聞いて下さい。今朝僕は警部に、牛神画伯が昼寝中に首を絞められた話をしましたよね。僕はその時の皆のアリバイを調べてみたんですが、その時ヨネさんは村まで買い物に出かけておられるのです」 「何だと、それは本当かね」 「本当です」 「ううむ」私は唸った。簡単に犯人を決めつけるが、矛盾が生じるとすぐにくじけるのも、我々脇役の務めである。「すると犯人はこの女性ではないのか……うーん」 「ところで今そこで刑事さんから聞いたのですが、ナイフには牛神画伯自身の指紋がついていたそうですね」天下一が訊いた。 「ああ、そうだ。しかしそれは自殺に見せかけようとした犯人の擬装だよ。指紋とはいっても、左手の指紋だった。牛神氏が右ききだったことは誰でも知っている」 「ははあ、そうですか。でもそれなら犯人だって知っているはずですよね。それにもかかわらず、なぜ左手の指紋をつけたのか……」 「そりゃあきっとあわてたんだろう」  私が軽率に断言した時、部下の刑事が入ってきた。 「警部牛神貞治の絵を扱っていた画商のところへ、こんな手紙が来ていました」 「手紙?」  部下が差し出した封筒から中身を取り出した。中の便箋《びんせん》には次のように書いてあった。 『牛神貞治の絵は、貞治自身が描いたものではない。私が描いたものを、自分の作品として発表しているのだ。牛神貞治は、罪を償うべきである。』 「なにい、すると牛神は人の作品を盗んでいたというのか」 「そんなこと、絶対にありません」今まで泣いていたヨネが、顔を上げて断言した。「旦那様は御自分で描いておられました」 「一体誰がこんなものを書いたんだ」私は手紙を改めて読み返し、首を捻《ひね》った。 「ちょっと失礼」天下一が横から手を伸ばして手紙を取った。「汚い字ですね」 「筆跡をごまかすためだろう。決まっとるじゃないか」これだから素人は困るという顔を私は作った。 「ううむ、もしかしたら……」天下一は頭の中で推理が進み始めた時の癖で、もじゃもじゃ頭をがしがしと掻き始めた。フケが飛び散った。                  先程も述べたように、これは|犯人当て小説《フーダニット》である。では読者がメモを片手に読めば犯人がわかるのかというと必ずしもそうではなく、小説中の手掛かりだけでは、どう逆立ちしても真相を解明することなど不可能というのが、この種の小説の実態でもある。  しかしじつはそれでもいいのだ。というのは、作品中の探偵のように論理的に犯人を当てようとする読者など、皆無に等しいからである。大部分の読者は、直感と経験で犯人を見破ろうとする。 「あたし、途中で犯人がわかったもーん」という読者が時々いるが、実際に推理してわかったのではなく、こいつだ、と適当に狙いをつけたら当たっていただけに過ぎない。しかも作者側にとって厄介なことに、その狙いは一つに絞られているわけではないのだ。読者の犯人当ては、競馬の予想みたいなものである。たとえば今回のケースだと、読者の予想は大体次のようなものになる。 [本命]竜見冬子 若くて美人。この人が犯人だと絵になる。被害者の死を一番悲しんでいるのが、何となくわざとらしい。 [対抗]虎田省三 好青年として描かれている。最も怪しくないから逆に怪しい。 [穴馬]馬本夫妻のどっちか 財産目当てという動機が見え見えなので、これはたぶん作者が読者をミスリードするためのキャラクター。 [大穴]犬塚ヨネ 地味で目立たないけど、じつは悪女というドンデン返しもあるかもしれない。 [超大穴]刑事の誰か 時々そういう小説もあるので、考慮には入れておこう。 [番外]自殺もしくは狂言。あるいは全員がグル。  以上のような予想をたてて、さあどんとこいと読者は待ち構えているわけである。したがって誰が犯人であっても、「やっぱりそうか、それも考えたんだよね」というのだ。 「おい、大丈夫なのか」私は出番を待っている天下一にいった。これから彼が謎解きをすることになっているのだ。「本当に読者の裏をかくだけの真相があるんだろうな」 「任せてください」天下一は自信たっぷりだ。 「しかしなあ、この主要登場人物の誰が犯人であっても、読者は驚かんぞ」 「でしょうね」 「やけに余裕があるな。おい、いくらこういうタイプの小説だからといって、作者だとか読者が犯人でしたなんてことはないだろうな」 「それはありません。それにたぶん、そういうことさえも近頃の読者は予想しているでしょう」  まさにそのとおりなので、私は唸り声を上げた。  居間のドアが開いて、部下の刑事が顔を出した。「全員を集めましたが」 「よし、じゃあ行こう」天下一を連れて、私は中に入った。居間では、関係者全員が顔を揃えていた。私は咳払いをした。「あー、今回の事件について天下一君が話したいことがあるそうだ。素人の推理など聞いても無駄だと思うが、本人がどうしてもというので、聞いてやろうと思う」いつもの台詞である。  私が腰を下ろしたところで、天下一は一歩前に出た。 「さて皆さん」これまたいつもの切りだし方だ。「今度の事件はじつに奇妙なものでした。さすがに私も混乱させられました。しかしついに真犯人を見つけられたのです」 「誰だ」 「誰なの?」  関係者の間から声が上がった。 「それは」天下一はぐるりと一同を見てからいった。「男性です」  おう、というどよめきが起った。 「あなたね、あなたなのね」 「違う、俺じゃない」 「僕でもありません」  騒ぎ始めた関係者を、まあまあと天下一がなだめた。 「僕の話を聞いてください。犯人である彼は、長い間牛神貞治氏の陰の存在に甘んじていたのです。自分が描いた絵を、牛神氏に横取りされ、牛神氏の作品として発表されていました。にもかかわらず牛神氏から彼には、何ひとつ見返りがなかったのです。彼はついに怒りました。今までの恨みを爆発させ、ついに牛神氏を殺害するに至ったのです」 「誰なのかね、それは?」私は立ち上がって関係者を睨んだ。 「誰なの?」 「誰ですか、早く教えてください」 「その彼とは」天下一はもったいをつけて深呼吸してから続けた。「それは牛神貞治氏の中に潜む、もう一人の人格です」 「…………」全員が沈黙して探偵を凝視した。 「牛神氏は幼い頃、病気治療のためにある脳手術を受けていたのです。その結果……(専門的記述略)……右脳に別人格が生まれ、その人格が絵を描き始めました。調べたところ、牛神氏は右ききのはずなのに、絵筆には左手の指紋がついていました。左手の動きは右脳が司っているから、そうなるのです。例の告発文の字が下手くそだったのは、左手で書かれたものだからでした。さて先程もいいましたように、その人格は牛神氏の主人格を憎み始めました。彼は主人格が眠っている間に、彼の首を絞めようとしたり、コーヒー砂糖に毒を盛ったりしましたが、どうにもうまくいきません。最後にはついに、ナイフで胸を突き刺しました」 「アトリエのガラスが粉々に割られていたのはなぜかね」何となく場の雰囲気が悪いのを感じながら私は質問した。 「それはそこに牛神氏の姿が映るからです。錯乱した別人格は、牛神氏の姿と見れば、片っ端から破壊しました。鏡も時計のガラスも。そしてキャンバスもずたずたに切り裂きました。そこには牛神氏の自画像が描かれていたのです」 「うーん」私は呻《うめ》いてから呟いた。「それは自殺とは違うのだろうか」 「違います。自殺とは根本的に違います。これは殺人です」天下一はムキになっていた。  関係者は、まだ狐につままれたような顔をしている。 「そうか、そうだったのか」私は立ち上がった。「別人格が犯人だったのか。ううむ、そこには気づかなかった。さすがだ。さすがは、名探偵の天下一君だ。いやあ、今度ばかりは兜《かぶと》を脱いだよ」私は必死で天下一を持ち上げた。 「いやあ、これも大河原さんの助言があればこそで――」  彼がそこまでいった時、どこからか何か飛んできた。拾ってみると、ビールの空き缶だ。おや、と思っていると、次にはバナナの皮が投げられてきた。 「ありゃりゃ、どうなっているんだ」天下一は頭を手で覆った。  私ははっとした。 「読者だ。読者が怒って投げつけてきているんだ」  そのうちに生ゴミや、馬糞までもが飛んできた。 「うわあ、助けてくれ」天下一は逃げだした。 「おい、おいていかないでくれ」私もまた、スタコラと尻をまくって駆けだした。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第三章 屋敷を孤立させる理由《わけ》――閉ざされた空間 [#改ページ]  山道の両側には、汚れた綿のような雪がこんもりと積もっていた。しかし今日は晴天で、風も全くない。気味悪いほど静かで、ジープのエンジン音と、タイヤのチェーンの音だけが聞こえる。 「まだ遠いんですか」運転手に尋ねてみた。彼は私を駅まで迎えにきてくれたのである。 「あと五分ほどですよ」襟に毛のついたジャンパーを着た運転手は、軽い口調で答えた。  ジープは細い山道を上り始めた。右側は見上げるような急斜面、左側は転がり落ちたら地獄まで行ってしまいそうな崖だ。雪崩《なだれ》が起きたら通行不能だなと、ちらと思った。同時に、今回のストーリーがぼんやりと頭に浮かんだ。  ジープが止まったところは、斜面を背にして建っている、洋風の屋敷の前だった。 「やあやあやあ、これはこれは。お疲れさまでした、大河原警部」私を出迎えてくれたのは、この屋敷の主人である矢加田伝三氏だった。そこそこに太っており、そこそこに老けている紳士である。この地方では、指折りの資産家だ。税金も、いっぱい払ってくれているわけで、我々公務員の良きスポンサーということになる。 「立派なお屋敷ですな」私は本音半分とお世辞半分でいった。 「いやいや、おそれいります。どうぞごゆっくりなさってください」矢加田氏はそういうと、次に現れた客のところへ歩いていった。  今日は、この屋敷の完成祝いの日なのだった。矢加田氏には、市街地に立派な家があるが、週末は自然に囲まれて過ごしたいということで、ここに別宅を作ったというわけだ。金持ちは、することが違う。  じつは今日ここに招待されたのは署長だった。ところが、間際になって慢性の腰痛が出てくれたおかげで、たまたま非番だった私にお鉢が回ってきたというわけだった。  広々としたパーティホールでは、立食形式の宴が行われていた。参加者は、ざっと数えたところでは、数十人というところか。地方紙に一度ぐらいは顔を出したことがあるという人物ばかりだ。  この機会に、日頃めったに口にできないものをたらふく食べてやれと思い、せっせと料理を皿に盛っていると、後ろから声をかけられた。「こんばんは。大河原警部」  私はぎくりとして振り向いた。よれよれスーツに、もじゃもじゃ頭の男が、丸眼鏡の奥からこちらを見ていた。この小説の主人公、天下一大五郎だ。 「おっ、君は」私は目と口を丸くした。「君も招待されていたのか」 「まあね。僕も少しは名前が売れてきましたから」天下一は鼻をぴくつかせ、屋敷の中だというのに骨董品のステッキをぶんぶん振り回した。 「ふん、えらそうに。たまたま二つ三つ事件を解決しただけじゃないか。素人のまぐれ当たりにはかなわんよ」私は例によって、私立探偵を馬鹿にする台詞《せりふ》を口にした。脇役の警部という役柄上、こういう態度をとらねばならないのだ。 「それはともかく」天下一は急に声を落とし、私の耳元で囁いた。「ここへ来るまでの道を見て、どう思いました?」役を離れた口調になっている。 「細かったな」私もまた小説世界から離れ、にやりとした。「すぐにでも雪で埋まってしまいそうだ」 「同感です」天下一も、うんうんと頷いた。 「たぶんもうすぐ雪が降りだすでしょう。しかも、とてつもない大雪だと、僕は睨みました」 「それで通行不能か」 「電話線も切れるでしょうね」 「そうなると、この屋敷は雪で閉ざされる。外部との連絡も不能だ」 「どうやら今回の事件は、あのパターンのようですね」 「らしいな。この作者は、あのパターンが大好きだし。しかしそれにしては」私はホールを見回した。「登場人物が多すぎると思わないか」 「その点は大丈夫だと思います。全員がここに泊まるわけじゃないですからね。たぶん殆どの人が帰ってしまい、残るのは、七、八人というところでしょう」 「だといいが」 「間違いないですよ。この作者の能力から考えて、それ以上登場人物が増えると、書き分けができなくなるはずです」 「なるほど」説得力ある説明に、私は納得した。  やがて矢加田氏の挨拶が始まり、氏と懇意にしている人物数名から祝いの言葉が述べられた。あとはゲームや余興で場が盛り上げられ、あっという間に時間が流れていった。  そして夜も更けてくると、天下一が予言したとおり、というよりこういう小説のパターンとして、雪が降ってきた。さらにこれまた予想どおりに、客の大部分が帰路につき始めた。残った人間は二人の使用人を除くと、主人の矢加田氏と綾子夫人それから私と天下一を含めた五人の客だけだった。  我々は、パーティ会場を出ると、渡り廊下で繋がっている離れに案内された。そこにもゆったりとくつろげる居間があり、改めて酒を飲み直すことになった。この機会を逃したら、一生飲むことはないだろうと思えるような高級な酒が、ばんばん出てくる。この際だから、私は、あまり遠慮しないことにした。他の客も、矢加田氏が持ってくる珍酒、名酒を、がぶ飲みしているのである。数人寄れば、中には一人ぐらい下戸がいそうなものだが、今夜は酒飲みが揃ったらしい。天下一にしても、すました顔で座ってはいるが、どんどんピッチが上がっている。  ブランデーとスコッチのボトルが、何本か空になった頃、電話が鳴りだした。矢加田氏が受話器をとった。  二言三言話していた矢加田氏は、受話器を置くと、憂鬱そうな顔でこちらを見た。 「少々困ったことになりました」 「どうしました?」と私が訊いた。 「ええ、それが、途中の山道で爆破事故のようなものがあって、その影響で崖崩れが起こったそうです。そのため当分道が使えなくなってしまったのです」 「ははあ……」私は思わず天下一を見た。彼が笑いをこらえているのがわかった。私は咳払いをしてから矢加田氏に目を戻した。「爆破事故とは妙ですな」 「ええ。ただ原因調査するにも、この大雪ですから……それに何より、道を通れるようにするのが先決ですし」 「修復にはどれくらいかかりますかな」客の一人、大腰一男が訊いた。大腰は矢加田氏の古い友人だそうである。金回りはよさそうだが、何の仕事をしているのかは定かでない。 「雪がやめば、すぐにかかれるそうです。でも、明日いっぱいはかかるでしょう」そういってから矢加田氏は、和やかに一同にいった。「心配は無用です。一週間ぐらいは、皆さんにお泊まりいただける程度の備えはあります。まあ、この機会にゆっくりなさってください」  おそれいります、と客たちは頭を下げた。  この後も我々は、居間で酒を飲み続けた。こちらの顔を立ててくれているのか、矢加田氏は私に、今までに解決した事件について話してくれなどという。そういわれれば悪い気もしないので、「壁神家殺人事件」とか、「生首村呪い殺し事件」とか、「無人島死体連続消失事件」について軽く説明した。じつはどの事件も天下一探偵の手柄なのだが、そんなことは忘れているふりをしているわけである。天下一も横で、知らぬ顔だ。  私の話が一段落したところで、大腰一男が立ち上がった。「ええと……」もじもじ、きょろきょろしている。小便らしいが、パーティ会場とは建物が違うので、手洗いの場所がわからないのだろう。 「手洗いはこちらです。案内しましょう」矢加田氏が素早く立ち、大腰を連れて居間を出ていった。他の者が手洗いに立った時にはメイドに案内させるのに、大腰に対しては随分気を遣っているのだなと私は思った。 「少し冷えてきましたね」綾子夫人がいった。 「外は雪がかなり激しく降っているんでしょうな」客の一人である、だんご鼻の鼻岡がいった。「ここには窓がないのでわからないが」  数分で矢加田氏は戻ってきた。そしてメイドに命じた。「酒が少なくなっているじゃないか。どんどん持ってきなさい」 「いえ、私はもう充分です」青年実業家の足本が手を振った。「少々酔ったようです」 「何をおっしゃるんですか。まだお若いのに」矢加田氏は足本のグラスにブランデーを注いだ。そうされると、やはり嫌いではないからか、いやあ困ったなあとかいいながらも足本は嬉しそうに唇に運んだ。  それからまた一時間ほど我々は飲んでいたが、手洗いに向かいかけたらしい鼻岡が、途中で振り向いていった。「あれ、大腰さんはどうしたかな?」 「そういえば」メイドが不安そうな顔で全員を見た。「先程お手洗いに行かれたきり、戻ってきておられません」 「もう部屋で休んでおられるんだろう。心配はいりませんよ」矢加田氏はこういって、壁の時計に目を向けた。「いや、しかし、一応様子を見に行ったほうがいいかな。君、ちょっと大腰さんの部屋を見てきなさい」メイドに命じた。 「どうせ酔いつぶれちゃってるんですよ。無理して、がばがばがばがば飲んでたから」酩酊寸前の足本が、自分のことを棚に上げていった。  メイドが居間に飛びこんできた。「大腰さんは、部屋にもいらっしゃいませんけど」 「なんだって」矢加田氏は数センチばかり飛び上がった。「よし、じゃあ屋敷中を探し回るとしよう」 「手伝いましょう」私も腰を上げた。 「僕も」と天下一もいった。  結局全員で探し回ることになったが、大腰の姿は見当たらなかった。私は離れの玄関から外に出てみた。雪はやんでいたが、庭は真っ白だった。足跡は一つもない。  ふと気がつくと、すぐ横に天下一探偵が来ていた。しゃがみこんで、庭の雪を触っている。 「何をしているんだ」 「いやちょっと」天下一は立ち上がり、あたりに誰もいないことを確認してから小声でいった。「事件が起きたみたいですね」  うむ、と私は頷いた。「タイミング的に、そろそろだと思っていた。酒を飲むシーンばかりで、読者も飽きてくる頃だしな」 「今度はどういうトリックですかね。犯人当てか、不可能犯罪か」 「密室だったりしてな」わざと意地悪くいってみた。  案の定、天下一は泣きそうな顔をした。「それだけはご勘弁を……」  その時矢加田氏の声がした。「警部、大河原警部はどこですか」 「はい、今行きます」私は、いつもの厳しい顔に戻って屋敷に入った。  矢加田氏は私を見ると、手招きした。「こちらへ来てください」  彼に導かれて、我々は物置のような部屋に入った。しかし灯りがつくと、中は驚くほど広かった。そしてそれ以上に、そこに置いてあるものを見て、目を丸くした。  そこにはケーブルカーが格納されていたのだ。 「どうしてこんなところにケーブルカーが」  私は矢加田氏に尋ねた。 「これに乗れば、裏山に登れるのです。上にも展望台を兼ねた小屋を作りましてね。夏にはビールでも飲みながら下界を眺めようかと」 「ははあ、さすがに考えることが違いますな」 「それでこのケーブルカーがどうかしたのですか」天下一が質問した。 「ええ。じつは誰かが使った形跡があるのです。もしや大腰さんが乗ったのではないかと思いまして」 「ううむ」私は唸った。「よし、では我々も上に行ってみましょう」  綾子夫人とメイドだけを残し、私と天下一と矢加田氏、それから二人の客がケーブルカーに乗り込んだ。 「やあ、すごい急斜面だ」足本が窓の外を見て感嘆した。「これじゃ、歩いて登るのは無理だな」 「大腰さんも酔狂なことをする。こんな大雪の日に展望台に上がるなんて」鼻岡が呑気にいった。 「大腰さんは一人で乗ったのではないですよ」天下一がいった。「それならケーブルカーは上に行ったきりのはずだ」  一同、なるほどという顔で頷く。  ケーブルカーが上の小屋に到着した。約十五分を要していた。小屋を出て、周辺を探した。下と違って、ここでは粉雪が痛いほどに降っている。  捜索を始めて約十分後、大腰の死体が見つかった。小屋のすぐそばで倒れていたのだが、雪に覆われて見えなかったのだ。大腰は後頭部を殴られていた。  孤島なり、閉ざされた山荘なりで殺人事件が起きるというパターンが、ミステリの世界ではしばしば見られる。この天下一シリーズにおいても、何作もある。登場人物の私がいっているのだからたしかだ。当然このパターンの作品を歓迎する読者がいるから、書かれるのである。  もっともこれには、日本では、という但し書きが必要かもしれない。評論家によると、現在の欧米では、こういう作品は全然なくて、こんなものを喜んでいるのは日本の読者だけらしいからである。しかしまあ日本には日本の文化があるわけだから、欧米人が喜ばないものを喜ぶからといって、日本の読者が幼稚だとか劣っているということにはならないだろう。書きたい作家は書けばいいし、読みたい読者は読めばいいのである。  ただ――と登場人物の立場から少しいわせてもらいたい。  もうちょっと工夫できないものか。いつもいつも大雪で山荘が孤立したり、嵐で孤島の別荘が孤立したりするのでは、読者の皆さんも飽きてくると思うのである。登場人物だって、いい加減うんざりしてくる。  そもそも舞台を孤立させる理由は、どこにあるのだろう? 孤立させないと、どういう点がまずいのだろう? 「まず容疑者を限定できるというメリットがあります」私の独り言を横で聞いていた天下一が、口を挟んできた。「外部犯行の可能性を消すことで、不可能犯罪だってことを、より鮮明に読者にアピールできます。今度の場合なんかもそうです。全員が居間にいたのに、大腰氏が山頂で殺されている。しかし容疑者はほかには考えられない。いやでも謎が深まります。これは作家側の事情といえるでしょうね」 「メリットはそれだけか?」 「まだまだあります。たとえばこれは僕の立場からいうのですが」天下一は鼻の横を掻いた。「探偵役が孤軍奮闘できるという点が魅力的ですね。警察が加わると、科学捜査やら人海戦術やらで、知能ゲームのムードが壊れます。孤立していれば、純粋に犯人対名探偵の戦いになる」  自分で自分のことを名探偵という人間も珍しいと思って、しげしげと天下一の顔を眺めたが、奴のほうは何を誤解したか、うんうんと何度も頷いている。 「犯人側のメリットについても見逃せないでしょうね。舞台が孤立していれば、警察は介入できず、関係者も逃げ出せない。だから犯人は、次々と殺人を実行できます。その気になれば、全員殺して自分も死ぬということだってできる。このパターンは名作にありますが」 「じゃあ一人だけ殺すつもりなら、孤立させる必要はないな」 「そうともかぎりませんよ。トリック上の都合があるかもしれない」 「なるほど。メリットのほうはよくわかった。しかし、デメリットだってあるぞ。犯人にしてみれば、容疑者は多いほうがいいはずだろう。関係者が限定される状況下で犯罪を犯すというのは、どう考えても不自然だね」 「それはたしかにあります」天下一は苦い顔をした。 「だいたい、犯人はなぜこんな場所を選ぶんだろうな。『屋敷もの』なんかを読むと、いつも思うことだが、町中で通り魔的に殺すほうが、よっぽど捕まる可能性が低いんじゃないか」 「ううむ」天下一は腕組みをした。「それをいうと、身もふたもないですよ」 「そうなるだろう。だからこういう話は嫌いなんだ。何から何まで不自然で、作り物の、人工的な世界だなんていわれる」 「いや、しかし、今度は大丈夫ですよ」天下一は自信たっぷりにいった。「この事件は、警部の不満を解消できるものだと思います」 「そうかあ? それならいいが」 「大丈夫、大丈夫。まあ、見ててください」探偵は高笑いしながら、立ち去った。  小説世界のほうでは、私は各自の事情聴取を行っていた。その結果、次のようなことがわかった。 ・足本は大腰に借金があり、それを返せ返せと責められていた。 ・鼻岡は、大腰の妻を愛している。 ・矢加田夫妻は、いい人である。 ・使用人たちは大腰とは初対面である。  以上のことから、私は足本と鼻岡を疑うことにした。もちろん内心では、この二人は絶対に犯人ではないなと思っている。だがここでこういう二人に嫌疑をかけて騒ぐのが、天下一探偵シリーズにおける私の役目なのだから仕方がない。 「ううむ、弱った」事件の翌朝、居間のソファに座り、私は頭を掻きむしった。「今度の事件だけは、どうにも手におえんぞ」いつもの台詞である。  そこへ矢加田氏が現れた。「さすがの警部でも、だめですか」 「いやあ、面目ない」私は顔をしかめた。 「容疑者は絞れておるのですが、殺害方法がわからんのです。あの時は誰も、長い時間席を外したりしなかった。だが山頂に行くには、ケーブルカーを使っても、片道十五分はかかってしまう」 「では、自殺とは考えられませんか」 「無理ですね。自分の後頭部を殴る自殺方法なんて、聞いたことがない」 「それなら事故とは?」 「事故ですか……」私はしばし唸り声をあげた。それからいった。「ううむ、そうかもしれませんな。酔った大腰さんが、悪戯《いたずら》半分でケーブルカーに乗り、上の小屋で降りた途端、何かの拍子で頭を打ったのかもしれない。で、何かの拍子でケーブルカーのスイッチも入って、空のまま下りてきたのかも……」  何かの拍子、という言葉は、私のような脇役警官にはとても便利である。 「よし、そうだな。きっとそうだ」私は手を打った。「矢加田さん、あれは事故ですよ。それしかない」  その時、居間の入り口から天下一が姿を見せた。「皆さん、集まって下さい」  彼の声で、屋敷内にいた人間が集まってきた。 「何ですか」 「どうしたんですか」  全員が、まるで打ち合わせてあったかのように、天下一を囲んで扇形に座った。 「何だ、なんだ、何だ」私は口を尖らせて喚《わめ》いた。「何をする気だ、君は」  天下一は、こちらを見てにっこりした。 「もちろん謎解きです。大腰氏を殺害した犯人がわかったのです」 「殺害だと? ふん」私は鼻で笑った。「あれは事故だ。たった今、決まったんだ」 「いいえ警部。あれは殺人です」彼は一同を見回した。「そしてもちろん犯人は、この中にいます」  おう、というどよめきが上がった。 「誰なんだ?」と鼻岡。 「誰なんですか?」と足本。  皆に続いて矢加田氏も尋ねた。「一体誰が大腰さんを殺したとおっしゃるんですか」  すると天下一は一度大きく深呼吸した後、ゆっくりとその顔を矢加田氏のほうに巡らせた。丸眼鏡の奥の目が、きらりと光った。 「犯人は、あなたです。矢加田さん」  矢加田氏を除く全員が、「ええっ」と驚いた。そして矢加田氏に注目した。  この屋敷の主人は、しばらくそのまま動かなかったが、胸を大きく上下させると探偵に向かっていった。「どういうことですか? あの時私が居間にいたことは、皆さん御承知だと思うが」 「そうだぞ、天下一君」私も矢加田氏の肩を持った。「大腰氏を殺す暇などなかったはずだ」 「さて、そうでしょうか」だが天下一探偵は、余裕たっぷりにいった。「大河原警部も覚えておられるでしょう? 最後に大腰氏と接触したのは矢加田氏です。たしか手洗いに案内されたんでしたね」 「馬鹿馬鹿しい。一緒にいたのは、ほんの二、三分ですよ」矢加田氏は苦笑した。 「二、三分あれば」と天下一はいった。「後頭部を殴る程度のことはできます」 「そりゃあ殺せるだろうが、山頂まで運ぶのは無理だろう」と私はいった。  ところが天下一は、にやりと笑った。「それが可能なんです」 「まさか」 「本当です。嘘だと思うなら、僕のあとについてきて下さい」  天下一は、くるりと向きを変えて歩きだした。私は彼の後を追った。もちろんほかの者も、私に続いた。  彼は廊下を歩いた。方向として手洗いに向かっているようだった。しかし手洗いは通り過ぎ、廊下の突き当たりまで進んだ。そこにもドアがついていた。 「さあ、それでは御覧下さい」天下一はドアを開けた。  うおお、という驚きの声が男たちから漏れた。無理もなかった。ドアの外は、雪に覆われた下り斜面だった。ひゅうひゅうと、雪混じりの冷たい風が吹き込んでくる。 「ここは……さ、山頂じゃないか」鼻岡が吃《ども》りながらいった。 「そうです」天下一がいった。「我々は、いえこの離れは、我々が気づかないうちに山頂に来ていたのです。そういう仕掛けが、この屋敷にはついているのです」 「どういうことなんだ。説明してくれ」と私は天下一にいった。 「仕組みは簡単です。つまりこの離れ全体が、巨大なケーブルカーになっているのです。ただし動く速度は、ずっと遅いです。片道に一時間以上はかかるでしょう。だから中にいる者も移動していることに気づかない」 「昨夜も、こうして山頂に来たのか」と鼻岡が訊いた。 「そうです。この状態で、矢加田氏は大腰氏を撲殺し、その非常口から突き落としたのです。そして再び屋敷を元の位置に戻し始めました。その間に我々に気づかれてはまずいので、居間で酒を振る舞い続けました。矢加田氏としては、まだ屋敷が移動している間に、我々が部屋に戻って窓から外を見るというのを、もっともおそれたのです。大腰氏が手洗いから戻ってきていないことについて騒ぎが大きくなりかけた時も、矢加田氏はいったんは心配いらないという態度をとりました。まだ屋敷が元の位置に戻っていないかもしれないと思ったからでしょう。ところが時計を見ると、充分に時間が経過していることがわかったので、途端に大騒ぎを始めたのです。いかがです、矢加田さん。僕の推理に間違っている点はありますか」  だが矢加田氏は何もいわない。凍りついたように立ち尽くしている。 「君はなぜこのことに気づいたのかね」私が逆に天下一に尋ねてみた。  彼は、にこやかに笑った。「大腰さんを探している時、警部と一緒に庭に出たでしょう。あの時に変だと思ったのです。この建物に付着している雪と、庭に積もっている雪の質が全然違う。まるで建物だけが、高い場所に行ってきたかのようでした」 「そして実際、建物だけが移動していたというわけか。うーん、参った。今度ばかりは君に一本とられたようだな」私はいつもの台詞をいって、探偵役を讃えた。  矢加田氏が、突然床にひれ伏した。 「すべておっしゃるとおりです。私はかつて強盗をしたことがあります。その時に得た金を元手に、今の地位を築いたのです。ところが強盗仲間だった大腰は、その頃のことをネタに金を要求し続けました。すでに何千万という金を渡しています。このままではまずいと思い、奴を殺すことを考えました。この屋敷を作ったのも、そのためです。さらに私はこのトリックに自信を持っていましたので、後々誰からも疑われることのないよう、名探偵である天下一さんを招待しておいたのです」 「でもその考えは甘かったようですね」 「どうやらそうらしい」矢加田氏はがっくりとうなだれた。  天下一は、少し辛そうに矢加田氏を見下ろしていたが、突然ぱっと表情を明るくすると、私のほうを見た。 「どうです、大河原さん。今度の事件なら、不自然な点はないでしょう。犯人がわざわざ被害者をこの屋敷に呼んだのは、ここならトリックが可能だからです。爆破によって屋敷を孤立させた理由も、当然おわかりですね。建物が斜面に沿って登っていくところを誰かに目撃されたら、一巻の終わりだからです」 「そうだったのか」私は頷いた。「今回は、屋敷そのものに仕掛けがあるというパターンだったのだな。それにしても――」そこまでいって、口ごもった。 「何です?」天下一が詰問した。 「いや何、ちょっと……」  こんな大掛かりな仕掛けを作る金があるなら、その金で殺し屋でも雇えば話が早いではないかという考えが頭をかすめたが、それはやっぱり本格推理の場では、いってはいけないことなんだろうなと思うのであった。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第四章 最後の一言――ダイイングメッセージ [#改ページ]  それはそれは悲惨な死体であった。現場を見た途端、日頃から死体を見慣れている私でも、うへっ、となってしまった。  被害者は王沢源一郎という七十歳近い老人だった。王沢物産のワンマン社長である。現場は自宅二階の書斎で、被害者は開け放たれた窓の枠に、倒れかかるような格好で死んでいた。額から頭頂部にかけて、ぱっくりと割れ、夥《おびただ》しい量の血が彼の顔面を覆っていた。発見したのは、長年奉公している家政婦だが、そのようすを見て腰を抜かしてしまい、部屋の入り口に座りこんだまま泣き叫び続けたという。無理もない話だ。  凶器は現場に落ちていた、クリスタル製の文鎮であろうと思われた。ただし指紋は採取できなかった。おそらく犯人が拭いたのであろう。  この日王沢源一郎は、書斎で書道を行なっていたものと思われた。大きな机の上に、墨の入った硯《すずり》が置かれ、書道用の下敷きが広げられていたからだ。 「大河原警部ちょっと」現場を調べていた、部下の一人が私を呼んだ。 「どうした?」 「これを見てください」机と椅子の間を指差して部下はいった。 「おっ」と私は思わず声を漏らした。焦茶色の絨緞《じゅうたん》の表面に、墨で文字のようなものが書かれていたからだった。いや、文字のようなもの、というのは不適格だ。これは文字に違いない。 「そばにこれが落ちていました」部下が示したのは、先端に墨のついた筆だった。 「ううむ」私は唸り声をあげ、もう一度絨毯の文字を見た。どうやらアルファベットのようだった。「W……E……Ⅹ……かな」 「そう読めますね」すぐ横で声がした。部下の声とは違うので顔を向けると、もじゃもじゃ頭によれよれスーツ、丸眼鏡をかけた男が床を覗きこんでいた。 「わっ」私はのけぞった。「なんだ、なんだ、なんだ。君は何だ、君は」 「僕ですよ、大河原警部」男はステッキをぶんぶん振り回した。「頭脳明晰、博学多才、行動力抜群の名探偵、天下一大五郎です」 「ずいぶん説明的な自己紹介だな」私は白けた。 「作者に描写力がないので、自分でいうことにしたんです」 「ふん、なるほど。地の文で長々と説明されるよりはマシかな。まあ、そんなことはどうでもいい。どうして君がこんなところにいるんだ。関係者以外立入禁止のはずだぞ」 「被害者の王沢社長に雇われていたんですよ。ある人物の素行調査を依頼されてまして」 「ある人物というのは誰だ」 「依頼人の名を明かさないのがルールなんですが、死んでしまったのだから問題はないでしょう。ある人物というのは、王沢社長の奥さんです。二年前に結婚した、後妻さんでしてね。たしかまだ三十代前半のはずですよ。それだけ若くて、しかも美人ですから、王沢社長としても、浮気が気になって仕方がない。実際、どうも最近はそういう気配がある。それでまあ僕のところに調査を依頼してこられたというわけです」 「ありそうな話だな。で、調査の結果はどうなんだ」 「それがまだ途中でしてね。奥さんに愛人がいるらしいことはわかっているんですが、相手の名前はわからないという状態です。とりあえずそのことだけでも報告しに来たわけですが、依頼人がこの有様では、調査費を請求するわけにもいかないし……。まったく、とんだ大損害だ」天下一はもじゃもじゃ頭を掻き毟《むし》った。 「それは気の毒だったな。まあそういう事情があるなら、君からは改めて話を聞くとしよう。別室で待っていなさい」私は蝿《はえ》を追い払うような手つきをした。  ところが天下一は私を無視して、再び机の下を覗きこんでいる。 「警部さん、これはなかなか興味深い事件ですね」 「何をえらそうなことをいってる。素人探偵の出る幕ではない。引っ込んでいなさい」いつもの台詞《せりふ》を私はいった。 「ふうむ、W、E、Xか……」天下一は難しい顔をした。が、周囲を見回すと、私を見てウインクした。「大河原さん、今回はあれのようですね」その顔はこの物語の主人公ではなく、小説を評価する野次馬のものになっていた。 「そうだ。あれだ」私も周りを気にしながら声を落としていった。「いわゆるひとつのダイイングメッセージというやつだ」 「厄介なんですよね、あれって」 「まあな」私は顔をしかめた。「作者にしてみれば、簡単に謎めいた雰囲気を作れるし、サスペンスを盛り上げる効果もあって便利なんだろうが、大抵の場合 ストーリーが不自然になっちまうんだよなあ」 「不自然になるのも当然ですよね。もうすぐ死んじゃうっていう人間に、メッセージを書き残している余裕があるはずがない」 「まあ、我慢して付き合うしかないだろうな。それに小説だけでなく現実でも、これだけ殺人事件は頻繁に起きているんだ。死ぬ間際に犯人の正体を明かしておこうと考える被害者が、一人や二人いてもおかしくないだろう」 「それは目をつぶってもいいですけどね、どうしてわざわざ暗号めいたものにするんですかね。犯人の名前をずばり書き残せばいいじゃないですか」 「その点についてはだな、エラリー・クイーンが作品中の人物にこんなことをしゃべらせているよ。『死の直前の比類のない神々しいような瞬間、人間の頭の飛躍には限界がなくなるのです』。要するに、死ぬ間際には人間は何を考えるかわからんというわけだな」 「苦しい説明だな」天下一は嘲笑した。 「はっきりいうとだ」私は口を手で覆っていった。「犯人の名前を書き残したんじゃ、ミステリにならんということだ」 「安易な謎作りは、自分の首を絞めることになるんだけどなあ」 「とにかくぼやいても仕方がない。今回はこの謎を解くのが主題なんだから」私は小説中の人物に戻り、腕組みをして考えこんだ。「ううむ。W、E、Xか。これはいったい何を意味するのか。それがわかれば犯人逮捕も時間の問題に違いない」  しかし天下一はまだ小説世界に戻ろうとはせず、やる気のない顔でいう。 「そんなふうにW、E、Xと断定するのもおかしいんですよね。そう読めるというだけのことでしょ。もっと正確に説明しないと、読者に対してはアンフェアだと思うな」 「じゃあどんなふうにいえばいいんだ」 「たとえば大河原さんがWだとおっしゃってる文字は、実際には綺麗なWではないですよね。小さなVと大きなVを、横にくっつけたようにも見えます。しかも小さなVの下が少し離れているようだし、大きなVはずいぶんと平たい。Xにしても、先が少し曲がっている点が気になります」 「それはまあそうだが、あまり詳しく説明すると、読者に見抜かれてしまうじゃないか。とりあえずミスリードしておかんとな」 「だからアンフェアだというんです。それにこれは賭けてもいいですけどね、近頃の読者はこんな単純なミスリードには引っ掛かりませんよ」 「それは作者だって承知さ。さあ、文句いってないで、小説に戻ろう」私は天下一の背広の袖を掴んで、奴を虚構の世界へ引きずりこんだ。  現場検証を終えた後、私は関係者からの事情聴取を行なった。この日屋敷にいたのは、王沢社長の妻友美恵、娘洋子、その夫謙介、家政婦のタツコの四人である。ただしこの家には日頃から人の出入りが激しく、第三者が勝手に侵入して王沢源一郎の書斎へ行くことも可能だという。 「今日は休みでもないのに、どうして王沢源一郎さんは会社に行かず、自宅にいらっしゃったんでしょうか?」私は尋ねた。 「夫は社長とはいえ、実務はすべて副社長の良一さんに任していました。だから最近では大抵家にいました」若妻の友美恵が答えた。なるほど夫が浮気を心配するのも頷けるほどの美人だ。  それはともかく、良一というのは源一郎氏の息子らしい。良一にかぎらず、王沢一族の男は全員、源一郎の会社で厄介になっているということだった。  私は婿養子の王沢謙介を見た。「あなたも王沢物産にお勤めだそうですね。今日はどうして会社に行かれなかったのですか」 「今日は休みをいただいております」謙介は、おどおどした様子で答えた。 「どうして休まれたのですか」 「特に理由はありません。先日休日出勤をしたので、その振替です」 「ははあ」  次に私は、事件が起きたと思われている午後三時頃に、各自がどこにいたのかを尋ねてみた。それによると、友美恵は庭で花の手入れをしており、タツコは台所で夕食の準備。謙介と洋子は、庭のテニスコートでテニスをしていたという。テニスコートからだと、二階の書斎の窓が見えるが、二人ともプレイに夢中で、異変が起こったことには気づかなかったらしい。  この後、個別に聞いてみた。その結果、いくつか参考になりそうな話が聞けた。たとえば源一郎を憎んでいた人物に心当たりないかという点について、王沢謙介はこんな供述をしている。 「死者に対してこんなことはいいたくないのですが、率直なところ、憎んでいた人は多かったですね。特に部下たちです。義父は何事にもワンマンで、しかも情けをかけるということを知りません。長年仕えてくれた人を、平気で馘首《くび》にしたりするんです。大を生かすために小を断つというのは、義父の口癖でしてね」  また、源一郎氏は書道をしている最中に殺されたと見られるが、その点については友美恵夫人が次のように説明した。 「下手の横好きといいますか、悪筆のくせに書道を趣味にいたしておりました。自分の気に入った言葉を色紙などに書き、人にあげるというのが楽しみの一つでして。貰ったほうの迷惑など考えたこともなかったのでしょう」  だが何よりも有益だったのは、娘の洋子が話してくれた内容だった。彼女は友美恵夫人の浮気相手について心当たりがあるといったのだ。 「宝石のブローカーをしている男で、しょっちゅう我が家に出入りしています。あたし偶然、その男と友美恵さんが外で会っているのを目撃したこともあるんです」 「その男の名前は?」 「江島渉といいます」 「えじま、わたる」私は、ぽんと手を叩いた。「W、Eだ」  早速江島を参考人として呼ぶことになった。とはいえ、扱いは容疑者である。 「さっさと白状しろ」私は取り調べ用の机を叩いた。机の向こうには、青い顔をした江島がいる。「おまえと友美恵夫人は出来ていた。そのことに気づいた源一郎氏は友美恵夫人と離婚しようとしたが、それでは夫人に財産が入らない。そこで二人で共謀して、源一郎氏を殺したんだろう」 「ちがいます、ちがいます」やさ男の江島は、泣きそうな顔で訴えた。 「ええい、とぼけてもムダだ。おまえが犯人だということは源一郎氏が書き残している。W、E、Ⅹとな。おまえのイニシャルはW、Eじゃないか」 「じゃあⅩは何なんです?」 「それは……犯人という意味だ。怪盗Ⅹとかいうじゃないか」 「そんな強引な」江島は泣きだした。  ところが間もなく意外なことが判明した。江島には完璧なアリバイがあったのだ。どのように工夫してみても、彼には源一郎を殺せない。 「ううむ、どういうことだ」三つのアルファベットを睨んで、私は考えこんだ。「完璧に謎を解いたと思ったのだがなあ」  だがじつは、さほど落胆しているわけではない。というより、江島が犯人だなどとは、夢にも思っていない。ダイイングメッセージが「W、E、Ⅹ」で、犯人のイニシャルが「W、E」では、あまりにも読者を馬鹿にしすぎている。天下一もいったように、これは単なるミスリードである。江島渉なんていう名前の登場人物がわざわざ出てくるのも、作者のセコい仕掛けと考えていいだろう。  賢明な読者なら、とっくにお気づきのことと思うが、この文字をアルファベットとして読むところが間違いなのである。横から見たり、ひっくり返したりするべきなのだ。しかしこの天下一シリーズにおける私の役どころは、とんちんかんな推理を振り回し、的外れな捜査を繰り返すところにある。したがってもうしばらくは、このダイイングメッセージを、しつこくアルファベットとして読み続けるのだ。 「おい、君」私は若い刑事を呼んだ。「WEXという単語はあるかね?」 「さあ、ないと思いますが」若い刑事はあっさりといった。 「じゃあほかに、それに似た単語は知らんか」 「WAXというのがあります。ワックスのことです。あとはWETでしょうか。湿ったとか、湿気とかいう意味です」 「ううむ。どうも関係ないみたいだな」ひたすら無意味な推理を展開するのであった。  そこへ天下一が現れた。「だいぶお困りのようですね」 「なんだ君は。ここは警察の会議室だぞ。勝手に入ってきてはいかん」 「そういわずに話を聞いてください。僕はですね、王沢源一郎氏が窓際で死んでいたというのが気になるんですがね。頭を殴打されたのは机のそばでしょう? ダイイングメッセージを書いたのも机のそば。なのに、なぜ窓のところで倒れていたんでしょう」 「即死ではないようだから、本人が移動したんだろう」 「何のために?」 「さあな。何しろ死ぬ直前だから、何を考えるかわからんよ」 「僕は何か目的があったと思いますね。源一郎氏が窓を開け放ったままにするというのは珍しいということですから、もしかしたら窓から何か投げ捨てたのかもしれない」 「……なるほど」私はしばし考えたのち、部下に命じた。「おい、窓の下あたりを徹底的に調べろ。何か落ちているかもしれん」それから天下一を見る。「これは君にいわれてやるんじゃないぞ。つまりだな、私もその、そういう可能性があると思っていたわけだ」 「そうでしょうね」天下一はにやにやした。  やがて部下の一人が血相を変えて戻ってきた。 「警部、こんなものが茂みの中に落ちていました」  彼が差し出したのは、大きな色紙だった。点々と飛び散っている茶色のしみは血痕だろう。つまりこれは事件が起きた時、王沢源一郎が書いていたものだといえる。 「うん、なんだこれは?」そこに書かれている文字を見て、私は頭を捻った。  色紙の左上に、『休』という字が書いてある。その右横に『王』、そしてその下には、『沢』だ。 「これは間違いなく漢字のようですね」天下一も色紙を見ていった。 「休、王、沢か。むっ、わかったぞ」私は部下の刑事に命じた。「王沢謙介を引っ張ってこい」  部下が出ていくのを見送ってから天下一が訊く。「どうして謙介が犯人なんですか?」 「わからんかね」私はにやりとし、鼻の下の髭をこすった。「源一郎氏は、色紙に犯人の名前を書き残したのだよ。王沢とな」 「身内は全員、王沢という苗字ですよ」 「『休』という字が入っているじゃないか。これが大きな証拠だ」 「どういう意味です」 「事件のあった日、王沢謙介は会社を休んでいた。源一郎氏は、こういいたかったのだよ。犯人は会社を休んでいる王沢。つまり、休、王、沢」だ。 「じゃあ、あっちのほうはどうなるんです。W、E、Ⅹは」 「ああ、あれか」私は鼻毛を抜いた。「あれはまあ、事件とは関係ないんだろうな」 「うーん」天下一は腕組みをして首を傾げた。「かなり苦しいですね」 「いいんだよ」私は片目を瞑《つむ》った。「メチヤクチャな推理を展開するのが、この小説での私の役目だ」  王沢謙介が連れてこられた。例によって私は彼を締め上げる。ところが彼は否認する。部下たちによって謙介の最近のようすや人間関係などが徹底的に調査されるが、意外にもというか予想通りというか、何をどう調べても、源一郎を殺害する動機は見つけられない。しかも事件発生時、謙介が洋子とテニスをしていたのは、どうやら間違いないらしい。こうして謙介も容疑の対象から外さざるをえなくなった。 「うーむ、いったいこれはどういうわけだ。今度の事件は、さすがの私でも手におえんぞ」いつもの台詞をいい、弱りきった顔で頭を掻く。これでまあ、この小説における私の務めは終わったといえるだろう。  この後新たな証言が出てきたり、怪しげな人物が登場したり、どう見ても怪しくない人物が現れたり、一見無関係と思えるようなエピソードが盛り込まれたりしながら、物語は終局に向かっていく。天下一は源一郎の書庫から、故事ことわざの本などを引っ張りだして何事か調べたりしている。その目的を、もったいぶってしゃべらないのが、この種の探偵の特徴でもある。こちらとしても深く追及したりはせず、「まあどうせ素人探偵が素人考えで、愚にもつかんことを調べているんだろう」などといっておくのが慣例である。  そしていよいよ謎が明かされる時が来た。天下一探偵が関係者全員を屋敷の大広間に集めたのだ。 「さて、皆さん」探偵が皆を見回して、お決まりの第一声を発した。「今回の事件は、じつに興味深いものでした。これほど特異な事件は、私の記憶にありません。見事に計算されつくした犯罪です。これほどの犯罪を考えだした犯人の頭脳に対して、私は心から敬服いたします」  これはつまり、それだけすごい犯罪計画でも、自分の手にかかれば解明されるのだぞという、天下一自身の自画自賛でもあるわけである。 「今回私が疑問に思ったことの第一は、なぜ源一郎氏が自宅で殺されたかということです。なぜ危険をおかしてまで、王沢家に侵入したのか? この点にこそ、事件の真相に迫る鍵が隠されていたのであります」  探偵の舌はなめらかに動く。大層な表現を使っているが、じつは大した話でない場合も多い。今しゃべっていることにしても、要約すれば、犯人を身内だと思わせたかった、というだけのことなのだが、それをまわりくどく説明するわけである。  さらにいろいろともったいぶった話を続けた後、天下一の謎解きは佳境に入っていく。 「さあ、ここまで説明すれば、真犯人が誰なのか、すでにおわかりの方もいるでしょう。そうです。犯人は、ただ一人しか考えられません。あなたです」そういって天下一が指差したのは、山田一夫という人物だった。  この山田は物語の序盤から、ちらちらと出てきた人物ではあるが、読者の印象に残らぬよう、わざと地味に描写されている。素直に考えれば、絶対に怪しくない人物の一人のはずだった。 「山田さんは長年、会社のために働いてきました。しかし源一郎氏に裏切られたことを恨みに思い、犯行に及んだのです。そうですね、山田さん」  天下一の指摘を否定することなく、山田はがっくりとうなだれる。 「我が社は、ずっと前から政治家に賄賂を贈り続けていました。それを担当してきたのが私です。ところがそれが明るみに出そうになったので、社長は私一人に責任を押しつけようとしたのです。大のために小を犠牲にするのは当然だとおっしゃって……」おいおいと泣きだした。  私の部下が山田に手錠をかける。彼が連れていかれるのを、我々は見送った。 「なんと、あの人の良い山田さんが」 「よほどのことだったのね」  口々に驚きの言葉があがった。  そこで私は、はっと気づいた。 「おい、ちょっと待てよ天下一君。犯人はわかったが、肝心のダイイングメッセージはどうなったんだ。あれの謎解きが済んでないぞ」 「そういえばそうだわ。あれが気になってるのに」 「どういうことなんだ」 「怠慢ですぞ」  他の登場人物たちも文句をいいだした。 「まあまあ」皆をなだめるような手つきを天下一はした。「わかっています。わかっています。それでは今から謎解きをいたしましょう」こほんと一つ、咳払いをする。「ご存じのように、源一郎氏は書道の最中に殺されました。しかし即死ではなかったのです。彼は倒れたまま、机の上の色紙と筆を取り、そこにメッセージを書こうとしました。テニスコートに洋子さんたちがいることを御存じだったので、色紙に字を書いて窓から出し、知らせようとしたのだと思います」 「ああ、かわいそうなお父様」洋子が臭い芝居をした。 「ところがここに一つの障害がありました」 「何だね?」と私が訊く。 「それは顔面を覆った血です。そのため源一郎氏は目を開けられなくなり、何も見えない状態でメッセージを書かざるをえなくなったのです。その結果、色紙からはみだした部分がありました。それが床に残っていた、W、E、Ⅹと読める文字です。ところがこの三文字ですが、老人の源一郎氏がアルファベットを書き残したというのは、どうも不自然です。そこでいろいろと検討した結果、カタカナだということが判明しました」天下一は紙に、あの床に書かれていたダイイングメッセージと同じような文字を書くと、それを皆の前で逆さまにひっくり返した。「こう見ればわかるでしょう。Wというのは『ベ』、Eはヨ』、Ⅹは『ヤ』だったのです」 「へええ……」  思い切り単純な謎解きだが、話の都合上、我々は感心するふりをした。 「しかしそれでも意味がわからんぞ」 「そこで色紙のほうです。色紙には、休、王、沢と書いてありました。これだけでは何のことかわかりません。僕は、この色紙には最初から何か書いてあり、そこにダイイングメッセージが書き加えられてしまったために、意味不明の文字になったのではないかと考えました。ではいったい何が書いてあったのか」天下一は故事ことわざの辞書を取り出してきて広げた。「山田さんの話にありましたように、大のために小を犠牲にするというのが源一郎氏の主義でした。それを表す言葉がここには載っています。尺をまげて尋《じん》をなおす、という孟子の言葉です。尋とは八尺のことで、八尺を真っすぐにするために一尺を曲げるという意味になります。それを漢字で書くとこうなるのです」  天下一が紙に書いたのは、『枉尺直尋』という四文字だった。 「源一郎氏は、この『枉尺』まで書いたところで襲われたのです。つまり、『休』、『王』と並べて書いたのではなく、『枉』の左横にカタカナの『イ』を、『沢』と書いたのではなく、『尺』の左横にカタカナの『シ』を書いてしまったのです」 「すると源一郎氏が残したメッセージというのは……」 「色紙に書き足された文字と絨毯の文字を続けると、このようになります。これが死を目前にした源一郎氏の、最後のメッセージだったのです」  天下一は紙を前に出した。そこにはこう書かれていた。  イシャヨベ――。 「うーむ」  一同一瞬むっとした顔をし、その後すぐに、納得した顔になったのである。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第五章 アリバイ宣言――時刻表トリック [#改ページ]  軽井沢のホテルで、若い女が殺されるという事件が起きた。そこで私こと大河原番三の登場と相成った。おまえはいつの間に長野県の警察官になったのだといわれそうだが、かたいことはいわないでほしい。  被害者の身元はすぐに判明した。東京のAB電機に勤めるOLで、名前を古井カブ子という。所属は資材部で入社十年の古株である。  カブ子はダブルベッドの上で扼殺《やくさつ》されていた。発見したのはホテルマンだが、頭からすっぽりと毛布をかぶせられていたので、最初はまだ眠っているのかなと思ったという。ところが揺すっても起きないので毛布をめくってみると、素っ裸のカブ子が生気のない目で虚空を睨《にら》んでいたというわけだ。  解剖の結果、殺されたのは昨日土曜日の夕方五時から夜の九時にかけてだろうと判明した。なおホテルを予約したのはカブ子らしく、チェックインも午後五時に彼女が行っている。フロントマンの記憶によると、連れがいたようすはないらしい。  部屋からは教本の毛髪が見つかっているが、いずれもカブ子のものだった。また彼女の身体を調べたかぎりでは性交のあとはない。ただ、トイレの便座が上がっていたのが、我々の気をひいた。 「女が一人でダブルの部屋に泊まるはずもないし、やはり男が一緒にいて、そいつがカブ子を殺したと考えて間違いないだろう」捜査会議での私の発言に、他の刑事たちも、ふむふむと頷《うなず》いた。 「いや、そうとはかぎりませんよ」ところが異を唱える者がいた。 「レズってこともありえます。便座を上げておいたのは、カムフラージュのためじゃないですか」 「しかしだな、ここは常識的に考えても――」そこまでいいかけて私は口をあんぐりと開けた。刑事たちに混じって座っているのは、よれよれスーツにもじゃもじゃ頭、丸眼鏡と古いステッキがトレードマークの天下一大五郎だったからだ。御存じ、といっても知らない人のほうが多いだろうが、この天下一探偵シリーズの主人公である。 「あれれ、おいおいおい」私は彼の汚らしい頭を指差した。「君はなんだ、君は。なんでこんなところにいる。君みたいな素人探偵の来るところではない。出ていきなさい」 「いやあ、それがですね」天下一は頭をばりばりと掻《か》いた。「今回は刑事役なんですよ」 「えっ、刑事役? どういうことだ」 「というのはですね、今回の事件には、僕みたいなクラシック系名探偵は似合わないかららしいんです。閉ざされた屋敷で謎の大富豪が殺されるとか、奇人変人ばかりが住んでいる街で連続殺人事件が起きるとかだったら、僕のキャラクターが生きるんですがね」 「今度の事件現場は避暑地のホテルで、被害者はキャリアウーマン……と。たしかに君が出てくる雰囲気ではないな」 「そうでしょう」 「しかし、どうして今回はこういう感じなのかな。おどろおどろしたムードが天下一シリーズの持ち味のはずだが」 「それはトリックに関係があるみたいですよ。そのトリックには、こういう現代的な世界のほうがぴったりくるらしいんです」 「ふうん。そうなのか。じゃあ仕方ないな。この小説では刑事役をやってくれ。それにしても、その恰好はいただけんぞ。着替えてきなさい」 「やっぱりだめですか」天下一は頭を掻きながら出ていった。  被害者の人間関係、特に男性関係が、捜査員たちによって調べられた。今回は名探偵一人が活躍するパターンとは違うので、捜査の進展が非常に速い。どんどん新しい事実が浮かび上がってくる。  まず名前の上がったのが、古井カブ子の昔の恋人で、現在も同じ会社にいる只野一郎という男だった。愛憎のもつれから衝動的に殺してしまったということは充分に考えられるので、早速調べることにした。  只野は中肉中背で、何度見ても覚えられそうにない平凡な顔をした男だった。彼はカブ子とのかつての関係を認めた上で、現在は全く付き合いがないと断言した。 「でも噂によると古井さんのほうは、あなたとの仲を復活させたがっていたそうじゃないですか」会社のロビーで私は只野に訊《き》いた。警部自らがこんなふうに聞き込みにくることなど、まずないだろうが、捜査本部で座っているだけでは小説が面白くならないので、そういう常識は無視するわけである。 「冗談じゃない」と只野は目を剥《む》いた。「私はこの前結婚したばかりなんです。どうして今さら彼女と付き合わなきゃならないんですか。それに第一彼女との仲は、傍《はた》が思っているほど深いものじゃなかったんです。仕事を手伝ってもらった礼に、二度ほど食事に誘った程度です。それを何を勘違いしたのか、彼女のほうが吹聴《ふいちょう》しちゃって、おかげでずいぶん迷惑しました」 「すると一緒にホテルに行ったことなんかは」 「ありません。あるわけないでしょう」只野は、平凡な顔に類型的な怒りの表情を浮かべていった。 「わかりました。それではですね、事件当夜どこにおられたか、一応お話しいただけますか。これは形式的なもので、神経質にお考えになる必要はありません」  いわゆるアリバイ調べというやつである。この時点で勘の鋭い読者はもちろん、そうでない読者にも、今回のトリックがどういう種類のものであるかは察しがついたと思う。  私の質問に只野一郎は不機嫌そうな顔で答えた。 「ええと、あの夜はですね、妻と家でビデオを見ていました」 「家にいたことを証明できますか。電話がかかってきたとか、訪ねてきた人がいたとか」 「いやあ、生憎《あいにく》そういうことは……」只野は困ったようにいった。「妻に訊いてもらえればわかるのですが」 「なるほど、わかりました」私はいったが、肉親の証言に証拠能力がないことは、一般読者だって知っているだろう。アリバイなし、と私は手帳に書き込んだ。 「只野は犯人ではありませんね」只野が去った後、隣で声がした。見ると、天下一が腕組みをしていた。 「わっ」と私は二センチほど尻を浮かせた。「いつの間に現れたんだ」 「さっきからここにいますよ。今回僕は大河原さんの相棒刑事という設定なんです」 「ほほう、ワトソン役というわけか」 「さあ、それはどうか」天下一はにやにやした。 「まあいい。それよりも妙なことをいってたな。只野は犯人じゃないって? なぜだ」 「だって彼にはアリバイらしきものがないじゃないですか」 「おかしなことをいうじゃないか。アリバイがないから怪しいんだろう?」  すると天下一は、にたあ、と気味悪く笑った。 「またまたそんな見えすいたことを。だって今回のトリックは」  そこまで奴がしゃべったところで、「ストップ」と私は手を出して制した。 「こらこら、今ここでそれをばらしてどうするんだ」 「だって読者だってとうに気づいていますよ。さっき大河原さんだって、そういってたじゃないですか」 「仮にそうだとしてでもだ、『あの宣言』を聞くまでは知らん顔をしているというのがエチケットというものだ」 「ははあ、なるほど、『あの宣言』をねえ」天下一は首を捻《ひね》り、「まあ『あの宣言』のなされる時が、こういうタイプの小説の最初に盛り上がる場面ですからねえ。ま、いいでしょ」といった。  さて『あの宣言』とは何か? それはこの先を読めばわかる。  只野以外の関係者も、次々に事情聴取を受けることになった。質問内容は各自違うわけだが、一つだけ共通しているのが、「それで事件当夜、あなたはどこにいましたか?」というものだ。で、今までのところ、はっきりとしたアリバイを持つ者はいなかった。  その男が容疑者のリストに上がったのは、事件発生から四日目のことだった。男は名前を蟻場耕作といって、生産設備部の課長である。最近になって彼は、ある特定業者との癒着《ゆちゃく》が噂されるようになっていた。裏金を受け取り、競合会社の入札価格に関する情報を横流ししていたのではないかというのだ。そしてそれに加担していたのが古井カブ子らしいと見られていた。ただしまだ証拠はなく、極秘で調査が始められたところだった。  背任行為が露見するのを恐れ、仲間のカブ子を殺したというのは、充分に考えられることだ。  というわけで、蟻場耕作から事情を聞くことになった。  蟻場は線の細い、病的な感じのする男だった。それでもこちらがさりげなく背任罪のことを犯めかしたところ、その顔に朱を帯びさせた。 「そんな事実は一切ありません。私がリベートを受け取っているだなんて、そんな、そんなおそろしいこと。デマです。でっちあげです。私がエリートコースに乗っていることに嫉妬《しっと》した人間が、私を陥れようとしてそんな噂を流しているに違いありません」  我々が調べたかぎりでは、蟻場がエリートコースに乗っているなんて話は全くないのだが、彼自身はこういった。 「でも古井カブ子さんと親しかったことは事実でしょう?」 「それも嘘です。そりゃあ仕事の関係で話をしたことぐらいはあります。しかしそれだけのことで疑われるなんて……」全身で悔しさを表現した。 「わかりました」私は手帳を閉じた。「どうもお仕事中、申し訳ありませんでした。またお話を伺うこともあるかもしれませんが、その時はよろしく」  私がいうと、たった今まで悔しさのあまり身をよじらせていた蟻場が、「えっ?」といって目を丸くした。「あの、これで終わりですか?」 「はい。どうもごくろうさまでした」 「ははあ、あの、えーと……」蟻場は助けを求めるような目で隣の天下一を見た。「質問を一つお忘れじゃないかと思うんですが」 「あっ」天下一が声を上げ、肘《ひじ》で私の脇腹を突いた。「大河原さん、あの質問を」 「えっ、なんだ?」 「あれですよ。あ、れ」 「うん? あっ……ああ、そうか。うっかり度忘れしておった」私は咳《せき》払いを一つして、蟻場に向き直った。「最後にもう一つ質問をさせていただきたいんですがね、古井さんが殺された夜、あなたはどこにおられましたか?」  すると蟻場は一瞬とても嬉しそうな顔になったが、すぐに自分の立場を思いだしたらしく、きゅっと眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「アリバイ調査というわけですか。あまりいい気分のものじゃありませんな」 「申し訳ありません。皆さんに伺うことにしておりますので」 「仕方ありませんね」蟻場は傍らに置いてあったシステムノートを取り、もったいぶった手つきで頁《ページ》をめくり始めた。やがてその手が止まった。「ええと、あの夜はですね……」 「どちらにおられましたか」天下一が訊いた。  次の瞬間、蟻場の鼻の孔がぷくうと広がった。さらに胸を張り、目を輝かせたかと思うと、すうーっと息を吸い込んだ。そして一気にしゃべりだした。 「あの夜、私は仕事で大阪にいました。新大阪駅の近くにあるホテルです。チェックインしたのが夜の十一時過ぎで、それは調べてもらえばわかると思います。また荷物を部屋まで運んでもらう時にボーイと話をしましたから、そのボーイに私の写真を見せれば、私本人だったと確認できるはずです。ボーイが私の顔を忘れていることはないと思います。そんなことのないよう、よーく顔を見せておきましたから。でもこれだけだと、犯行後、急げば間に合うじゃないかとお考えになるでしょう。軽井沢からだと、信越本線で長野まで約一時間、長野から名古屋まで篠ノ井線と中央本線で約三時間、名古屋から大阪まで新幹線を使っても約一時間。待ち時間を考慮して、五時に軽井沢のホテルを出れば何とか間に合います。ところがじつはだめなんです。というのはですね。うひひ。というのはですね、私は四時まで会社にいたからなんです。土曜日ですが、休日出勤していたんですよ。守衛さんが証明してくれるはずです。帰りに挨拶しましたから。もちろんここでもしっかりと私の顔を見せておいたので、守衛さんも覚えているでしょう。さて会社を四時に出ると、上野駅に着くのはせいぜい四時半。そこからタイミングよく上越新幹線に乗れたとしても、軽井沢のホテルに着くのは六時四十分頃になるでしょう。カブ子を殺して、再び軽井沢駅に戻ると、七時半近くになっているはずです。これだと長野経由で大阪へ向かうには遅すぎます。じゃあいったん東京に帰るのはどうかというとですね、そこから急いで新幹線を使っても、東京に着くのは早くて九時半。こうなるともう新大阪まで行く新幹線はありません。えへへ。ないんですよ。あったとしても、『のぞみ』でも二時間半かかるから、着くのは十二時過ぎになっちゃいますけどね。つまりですね、つまりですね、この私にはですね、完璧なアリバイがあるということなんですよ。えへへへへ」  この瞬間が人生最大の楽しみだとでもいうように、蟻場耕作は幸福感に満ち満ちた顔をした。口の端から涎《よだれ》が出ている。  これがまあいわゆる、『アリバイ宣言』というやつである。 「やれやれ」蟻場耕作と別れてから、天下一がうんざりした顔でいった。「相変わらず、『アリバイ崩しもの』の犯人はあれだもんなあ」 「そういってやるな、連中としちゃあ、あの瞬間が一番の楽しみなんだから」 「それにしても、ちょっとばかり、しゃべりすぎじゃないですかね。芸能人じゃあるまいし、あんなに正確な時刻を把握しながら行動している人間なんて、現実の世界にいるわけないですよ」 「苦労して工作したアリバイを、いよいよ発表できるとなれば、少々力が入るのも無理ないだろう」 「それはわからないでもありませんがね、僕は正直いって、『アリバイ崩しもの』は苦手なんです」 「そりゃまあ君は、そういう謎を解くタイプの探偵じゃないからな。アリバイ崩しをするのは、本職の刑事か、フリーライターと相場が決まっている」 「なぜですかね」 「なぜってそれは……」いいながら首を捻った。「なぜなんだろうな」 「主人公のキャラクターはともかく、『アリバイ崩しもの』には、犯人を当てるとか、動機を推理するといった楽しみが少ないでしょ。あれがどうもね。趣味に合わないというか……。作家側がいろいろなバリエーションを考えだしていることは認めますが」 「それは仕方がないだろう。動機がわからないままじゃ、容疑者は絞れない。容疑者を絞れなきゃ、アリバイ崩しが始まらない」 「でも冷静に考えると、犯人がアリバイ工作をするのって、すごく馬鹿げていると思いませんか。そんな余計なことをするから、それが見破られた時に申し開きができなくなる。どんなに疑いが濃くても、証拠がないなら逮捕はできないんだから、アリバイなんかないよといってたほうが安全だと思うんですが。どうも犯人は無駄なことをしているような気がするな」 「そんなことをいったら、犯人がトリックを使う犯罪は全部だめってことになるじゃないか。死体消失とか、密室とか」 「密室のことはいわないでください」天下一が顔色を変えた。「禁句を」 「あっ、すまんすまん」天下一が密室アレルギーだということを思い出して、私はすぐに謝った。「君のいいたいこともわかるがな、『アリバイ崩しもの』には根強いファンがいるんだ。作者や我々登場人物たちは、読者のニーズに応える義務がある」 「そんなに人気があるんですか」 「ある」私は力をこめていった。「特に観光地をうまく盛り込んだものが人気がある。旅行をしているような気分で読めるかららしいな。それからさっき君は、犯人当てだとか、動機の謎を推理できないからつまらんというようなことをいってたが、アリバイ崩しファンには、そういうことには興味がないというか、そんなことに頭を使いたくないという読者が結構多いんだ。ただでさえ仕事で疲れてるのに、読書して余計にストレスが溜《たま》るようなことをしたくないというわけだな」 「しかしアリバイトリックというのも、読んでいてかなり疲れますよ。何時何分発の急行ナントカに乗り、何々駅で降りて何時何分発の準急でどこそこへ行く――なんて、頭の中がごちゃごちゃになります。よく必要な部分の時刻表の写しが掲載されていることがあるでしょう? 告白しますとね、僕はあれをまともに見たことがないんです。見たって、どうせわかりっこないと思うんですよね」 「君は全く読者心理がわかってないねえ」私はため息をついた。「アリバイ崩しファンだって、あんなものは見ていないよ」 「えっ、そうなんですか。じゃあどうやって推理するんです」 「推理なんかしないんだ。主人公が推理していくのを、漫然と眺めているだけさ。だから疲れない。最後の謎解きを聞いて、なんとなくわかったような気になれば満足なんだ」 「へええ」天下一は目を丸くして驚いてから、「いや、しかし」と考えこんだ。「純本格もののファンだって、似たようなものかもしれないな」 「そういうことだ。さ、グチをこぼすのはこれぐらいにして」私は天下一の背中をぽんと叩いた。「小説世界に戻ろう」  蟻場を含む関係者数人について、さらに詳しい捜査が続けられた。一人二人と容疑が晴れていく。そして残ったのは蟻場一人となるわけである。  ところが蟻場には、本人が力説したように鉄壁のアリバイがある。我々の捜査は行き詰まった。ありふれた表現を使うなら、暗礁《あんしょう》に乗り上げたわけである。 「つまり」と天下一刑事が私の横でいった。 「蟻場も犯人ではないということでしょう」 「いやいやいや」と私は首を振る。「まだそうとはいいきれない」 「でもアリバイがありますよ」 「そうだ。しかしそれが逆に怪しい」 「アリバイがあるから怪しいというなら、ほかにもアリバイのある人間はいますが」天下一はすました顔でいう。私の立場をわかっていながら、わざととぼけているのだ。 「いや、蟻場が怪しい」と私は負けずにいった。「動機もある」 「ではもしかしたら」天下一がいう。「蟻場が他の人間を使って、カブ子を殺させたのかもしれませんね。で、自分は完璧なアリバイを用意しておく」 「えっ? ああ、まあ、それも考えられんことはないが」私は心の中で舌打ちした。余計なことをいう男だ。「いやあ、やはりこれは単独犯だろう。蟻場が一人でやったことだと思うな。第一、殺人に手を貸しそうな人間が見当らん」 「それはまだ我々が見つけていないだけかもしれませんよ」 「それはそうだが」エへンと咳払いを一つ。「これは蟻場一人の犯行だ。奴が何らかのトリックを使って、アリバイ工作をしたんだ。そうだ、そうに違いない」 「そうかなあ。ほかに何か根拠がありますか」 「根拠って……まあ、これは刑事の直感だ」  この瞬間天下一は、ぶっと吹き出した。私は奴を睨みつける。 『アリバイ崩しもの』の天敵ともいえるのが、「共犯者の存在」だ。最も怪しい人物に完璧なアリバイがあるのなら、まずこれを疑うのが筋なのである。ところが共犯者がいないことを証明するのは、それほど簡単なことではない。探しても見当らないからといって、共犯者の存在を否定する警察なんて、この世のどこにも存在しないであろう。とはいえこういうタイプの小説で、いつまでもその点に拘《こだわ》っていては話が進まないし、読者だっていらいらする。そんな時には、「刑事の直感」という得体の知れないものを出してくるのが一番手っ取りばやいのだ。 「とにかく蟻場のアリバイを、もう一度洗い直そう。四時に東京を出た人間が、軽井沢に行った後、十一時過ぎまでに大阪へ行けるかどうか徹底的に調べるんだ」多少強引に、アリバイ崩しの方向へ話を持っていくのであった。  で、当然のことながら、この捜査は難航した。ここでちょっと時刻表を調べたり、各方面に問い合せたりしたぐらいで解けるようなトリックでは、伝統的な『アリバイ崩しもの』の面白さを保つことができないわけである。ほかの乗り物を使う手はないかだとか、突飛なルートを利用したのではないかとか、いろいろと検討し、その可能性がことごとく崩れていくところにこそ、こういう小説の醍醐味《だいごみ》がある。 「ううむ、どういうことだ」捜査がいっこうに進展せず、不景気な報告だけで終わってしまった捜査会議の後、私は椅子に座って唸《うな》り声を上げた。「このアリバイだけは、どうしても崩せんぞ」 「弱りましたね」天下一が隣で他人事のようにいう。 「ずいぶん呑気だな。本来このシリーズは君が主人公なんだぞ」 「でもいつもとキャラクターが違いますから」七、三に分けたヘアスタイルを手鏡で見ながら、天下一は変なポーズをとっている。 「それでも君が解決しないことには話が終わらんのだからな。なんとかしてくれよ」 「仕方がありませんね」手鏡を机に置いて彼はいった。「蟻場耕作に連絡をつけてください。僕が白状させてみせます」  待ってました、とばかりに私は手を叩いた。  都内のホテルの喫茶室で我々は会った。蟻場は、まだ何か用があるのか、とばかりに不愉快そうな顔をしている。 「ええとですね」天下一が切り出した。「アリバイのことなんですが」 「何か不審な点でもあるんですか」蟻場の目が光った。「あの日私は四時に会社を出たのですからして、軽井沢までは往復でも最低五時間半はかかり、その時間にはもう新幹線はなくて、仮にあったとしても」 「大阪に十一時に着くのは無理、ようくわかっております。それでこちらもいろいろと考えました。たとえば東京から軽井沢へ行き、戻ってくるのではなくて、日本海まわりで大阪に行ったのではないかとか」 「それでどうでした?」蟻場が、かすかに不安そうな目をして身を乗り出す。 「だめでした」と天下一は答えた。「余計に時間がかかるんです」 「そうでしょう? だめでしょう?」蟻場は目をらんらんとさせた。「ははははは。そうでしょう、そうでしょう。だめなんですよねえ。ははははは。ほかにはどういう手を考えました?」 「自動車を使う手です。中央高速をぶっとばせば何とかなるんじゃないかと」 「で、どうでした?」 「だめみたいです」 「がははははは」蟻場は椅子の上で悶《もだ》えた。 「だめでしょう? そうでしょう? だめなんだよねえ、これが。軽井沢から高速の入り口までがネックなんだ」 「それでですね。我々はこういう結論を出しました」天下一は改まった口調でいった。「あなたは犯人ではない」  私は驚いて天下一を見た。だがもっとびっくりしたのは蟻場らしい。どんぐり眼にし、ひょっとこのように口を尖らせた。 「えっ? ええと……それはつまりどういう意味ですか」 「どういう意味も、こういう意味もありません。あなたのアリバイは完璧なので、もうあなたを疑うことはやめたといっているんです」 「ははあ……いや、その、えーと、すると私のアリバイはどうなるんですか」 「どうにもなりません。あなたは東京から新幹線に乗って大阪へ行ったというだけです。その間にたまたま殺人事件が起きたので、あなたにはアリバイがあったわけです。運がよかったですね」 「これはどうも。いや、そうではなくて」蟻場は周囲をきょろきょろ見回してから、小声で囁《ささや》いた。「私が犯人だということはわかっているんでしょう? だったらアリバイトリックを解明するのがあなたたちの役目じゃないですか」 「いやー、それが、さっきもいいましたけど、どう考えてもわからないんです。だからトリックなんかなくて、あなたのアリバイは本物だってことに決定したわけです」 「そんな馬鹿な」蟻場はぴょこんと飛び上がった。「本物じゃないです。トリックですよ、トリック」 「いや、違うな」と天下一は首を振る。「約七時間で、東京から軽井沢へ行って殺人を犯し、大阪へ行くなんてことができるはずがない」 「それができるんです」 「ほう、どうやって?」 「それはですね」いいかけて、蟻場はぶるぶるぶると顔を振った。「それを推理するのがあなたたちの仕事でしょう」 「ほら、やっぱり無理なんだ。どうりでおかしいと思った。どう見ても、そんなすごいアリバイトリックを考えだせるタイプには見えないもんな」やけにぞんざいな口調で天下一はいった。 「し、しつれいな。ちゃんと私はアリバイトリックを考えだしたんだ」 「だからそれはどういうトリックだと訊いているんです」 「それは申し上げられません」  二人のやりとりを呆れた気分で眺めながら、私は『アリバイ崩しもの』の犯人の、複雑な心理を見せられる思いだった。彼等は彼等なりに、自分の考えだしたアリバイトリックに自信を持っているのだ。このあたりは、密室トリック等の他の不可能犯罪の犯人と何ら変わるところがない。  ただ他のトリックと違ってアリバイトリックの場合は、見破られなければ、そこにトリックが使われていたのかどうかがはっきりしない。たとえば内側から鍵のかかっている部屋で人が殺されていたら、これは何かトリックを使ったとしか考えられないわけだが、アリバイ崩しの場合、探偵役がその犯人を疑うことをやめてしまえば、謎そのものが消失してしまうのだ。  もちろん現実の世界では、それでいいのだが、虚構の世界でそんな展開になると、犯人たちの立場がなくなってしまう。彼等は自分が考えだしたアリバイトリックが徐々に解かれていくことを怖れながらも、その見事に構築された時間と空間の魔術が読者の前に公開される瞬間を、内心ぞくぞくしながら待っているのだ。 「ねえ、じゃあこうしましょう」蟻場が媚《こ》びるような顔でいった。「ヒントをさしあげます。それを参考に、もう一度アリバイ崩しにチャレンジする。ね、このセンでいきましょう。私がヒントを出したってことは、読者に内緒にしておきますから」 「いいえ結構です」天下一は、すげなく断った。  蟻場が困りきって呻いていると、スーツを恰好よく着こなした、すごい美人がどこからか現われた。彼女は天下一に何かメモのようなものを渡した。彼は、やあどうもありがとう、などと礼をいっている。 「おいおい、誰なんだあの女性は」と私は天下一に訊いた。 「えっ? ああ、彼女は僕の秘書です」 「なにい、秘書? いつの間にそんな……」 「まあいいじゃないですか。そんなことより」天下一は蟻場のほうを向いた。「状況が変わりました。やはりあなたが犯人だ」 「ほっ?」事態が突然変わり、蟻場はしばらく戸惑っていたが、すぐに本来の役柄に戻って表情を厳しくした。「何をおっしゃるんです。そんなことをいう以上は、私の鉄壁のアリバイを崩せるんでしょうね」 「もちろんですよ」天下一は、先程のメモを見た。「まずあなたは四時に会社を出た後、新幹線で高崎へ行き、信越本線に乗り換えて軽井沢へ行った。ホテルに着いたのは、六時半頃でしょう。その後、古井カブ子さんを殺し、軽井沢駅に戻ったのが七時半頃」 「ふむふむ、それで?」 「そこから信越本線で長野まで行きました。着いたのが、八時半頃でしょう」 「それからどうしたというんです?」 「そこからあなたはSEJAに乗って大阪に向かいました。SEJAが大阪に着くのが十時半頃でしょうから、充分に――」 「ちょっと、ちょっと。ちょっと待ってください」蟻場が焦《あせ》ったようすで両手を前に出した。 「何ですか、そのSEJAというのは?」 「知らないんですか。日本アルプス縦断超特急のことですよ」 「えーっ」といったのは、私と蟻場だ。 「そんなもの、いつの間に開通したんだ」と私。 「ついさっきです。この電車はすごいですよ、何しろ日本アルプスを直線的に突っ切っちゃうんですからね。さあ、蟻場さん、これであなたのアリバイは崩れました」 「待ってくれ、待ってくれ。そんなのってないよ。私の犯行時には、そんなものはなかったんだ」 「さあて、そういう言い訳が通じるかどうか。すでに出ちゃった本ならともかく、これから発表される作品に、こんなすごい乗物が抜けてるなんて、これは相当間抜けですよ」 「だけど私はそんな乗物は使ってないんだ。私はもっと見事なトリックを使ったんだ」 「見苦しいですよ。文句なら、遅筆の作家にいうんですな」 「じゃあせめて私のアリバイトリックを聞いてくれ。なっ、なっ、君だって聞きたいだろう?」 「別に聞きたくありませんね。さっ、警察へ行きましょう」  天下一は蟻場の腕を引っ張っていく。蟻場は、「誰か私のアリバイを崩してくれえ」といいながら、おいおいと泣きだした。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第六章『花のOL湯けむり温泉殺人事件』諭――二時間ドラマ [#改ページ]  列車の中(昼過ぎ)。  私は一人で駅弁を食べている。窓の外は、すっかり色づいた山々。  私は茶を飲み、にっこりする。 「いやあ、のんびりするなあ。手こずっていた事件がようやく一段落したし、今年になって少しも休暇をとっていなかったので、久しぶりに一人で温泉に行くことにしたんだが、思いきって出てきてよかった」  そういってから私は眉を寄せた。  なんだ、今の説明的な台詞《せりふ》は。  第一、相手もいないのに、なぜ声に出してしゃべってしまったのだろう。独り言をいう癖などはなかったはずだが。  それに小説の出だしも、なんだか変だった。列車の中、というのはともかく、(昼過ぎ)なんていう書き方があるだろうか。  まあいい。気にしないことにしよう。せっかくの休みだ。  私の名前は大河原番三、警視庁捜査一課の警部である。  おいおいちょっと待て、前回はたしか長野県警にいたはずじゃないかと文句をいう人もいるだろうが、このシリーズではこの程度のムチャクチャは許されるのだ。  さて私が目指したのは、関東北部にある有名な温泉地である。目的の旅館に着いたのが午後四時頃だった。  山田屋旅館、というのがその宿の名前だった。旅館とは名ばかりで、どこから見てもホテルじゃないかという宿が多いなかで、ここは純和風の、適度に年季を感じさせる旅館だった。部屋数はさほど多くないが、私のような一人客にも、ゆったりとした部屋をあてがってくれた。ここにして正解だったなと思った。  夕食までには時間があったし、この宿自慢の岩風呂には二十四時間いつでも入れるということだったが、あまり早く風呂に入って、のぼせた身体をもてあますというのも間抜けな気がしたので、ふらりと宿の近くを散歩することにした。どこの温泉街でも見られる光景が、やはりここにもあった。土産物《みやげもの》屋がずらりと並び、その前を客が冷やかしながら歩いていく。  山の中ということもあって、ここには大した名物はない。強《し》いていえば『温泉もなか』という菓子だが、一口で食べられるぐらい小さいという点を除けば、ふつうの最中とどう違うのか、見ただけではわからない。たぶん食べてもわからないだろう。名物とはそういうものだ。  私、一軒の土産物屋の前で足を止める。こけしやキーホルダーを触る。  その時隣で、「すみません。『温泉もなか』の十個入りをください」という若い女の声がした。  私は声のほうを見る。二十代半ばと思える髪の長い女(藤原邦子・二四歳)が『温泉もなか』を買っている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  女、店員から箱の包みを受け取ると、代金を渡しながら訊く。  邦子「あの、これはどのぐらい日持ちしますか?」  店員「一週間ぐらいもちますよ」  邦子「そうですか」 [#ここで字下げ終わり]  女は安堵《あんど》したような顔をして店を出ていく。私、彼女の後ろ姿を見ながら呟《つぶや》く。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  大河原「ふうん、若い女ってのは、やっぱり甘いものが好きなんだねえ」 [#ここで字下げ終わり]  えっ?  なんだ、なんだ。また不自然な独り言をいってしまったぞ。どうしたことだ。それになんだか文章の感じもおかしい。会話の前に、邦子だとか、大河原だとか付いているのはどういうわけだ。  いや待てよ、こういう文体をどこかで見たことがあるが……。  何となく嫌な予感がしてきた。私は足早に旅館に帰った。  夕食は六時半に部屋まで運ばれてきた。ビールを注文し、鯉《こい》の洗いや、岩魚《いわな》の塩焼きを食べながらグラスを傾けた。  一人で静かに温泉地の夜を楽しむのもいいと思ったのだが、現実は私の希望通りにはならなかった。どこかで宴会をしているらしく、ドンチャン騒ぎが聞こえてくる。大きな観光ホテルだと宴会場もかなり離れているのだろうが、小さな旅館だとどうしても限界があるのだろう。  ビールのおかわりを持ってきた仲居さんに、そのことをちらりといった。人のよさそうな顔をした仲居さんは、途端に顔をしかめた。 「東京の、なんとかいう会社の方々なんですよ。慰安会だとかで。どうもすみません」 「いやいや、別に迷惑というほどじやないんだ。気にしないでください」  満腹したせいか、食後、テレビを見ているうちにうとうとしてしまった。気がついた時には十時を過ぎていた。わざわざこんなところまで来て、温泉に入らないのでは話にならないと思い、タオルを肩にかけて部屋を出た。  廊下を歩いていると、一つの部屋のドアが開いて、若い娘が二人出てきた。一方(青木まさ子・二四歳)が、もう一方(邦子)を抱きかかえるようにしている。  まさ子「大丈夫?」  邦子「(頷《うなず》いて)うん、ちょっと疲れただけ」  私、その娘を見てはっとする。夕方彼女が『温泉もなか』を買っていたシーンの回想。  二人の娘、別の部屋に入っていく。ドアが閉まる。  大河原「彼女もここに泊まっていたのか」  呟いてから、我に返った。  ややや、またしても奇妙な文体に、わざとらしい独り言だ。いったいどうなっているんだ。会話文の中に、(頷いて)なんていうのが入っているのも相当おかしいぞ。  これはもしかしたら『あれ』ではないのか。  いやいや、まさかそんなことはあるまい。不吉な想像を払うように頭を振りながら、私は大浴場へと向かった。  この宿自慢の岩風呂には、はじめ私以外には誰もいなかった。それで思い切り手足を伸ばしてつかっていると、男が一人入ってきた。長身で、スリムな体形をした、なかなかの二枚目だ。年齢は三十歳前後か。  男(山本文雄・三二歳)、熱そうに顔をしかめながら温泉に入る。私を見て、軽く会釈する。私も応じる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  山本「お一人ですか?」  大河原「ええ、まあ」  山本「それは羨《うらや》ましいな。僕もそういう一人旅がしてみたいんですが」  大河原「あなたは御家族とですか」  山本「いや、慰安会ですよ。職場のね」  大河原「ああ(頷く)、でも若い女性も一緒だからいいじゃないですか」  山本「そうでもないですよ。結構気を遣いますしね」  大河原「へえ、そんなもんですか」 [#ここで字下げ終わり]  二人、揃って風呂場から出る。並んで廊下を歩いていると、前から青木まさ子が走ってくる。まさ子、山本を見ていう。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  まさ子「山本さん、大変なんです。邦子の姿が見えないんです」  山本「藤原君がいない? よくさがしたのか」  まさ子「はい。でもどこにもいなくて」 [#ここで字下げ終わり]  山本、たまたま通りかかった女性従署員を呼び止める。耳打ちしている。  私、娘に尋ねる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  大河原「いなくなったというのは、さっきあなたが介抱していた女性ですか?」 [#ここで字下げ終わり]  まさ子、知らない男から話しかけられて少し驚いた顔をするが、すぐに返事する。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  まさ子「はい、そうです。さっきはみんなでトランプをしていたら、急に気分が悪くなったとかいって」  山本が戻ってきて娘にいう。  山本「旅館の周りを探してもらうことにしたよ。皆にも手伝うよういってくれ」  大河原「私もお手伝いしましょう」  山本「すみません、助かります」 [#ここで字下げ終わり]  旅館の周囲。宿の従業員や、会社の同僚が邦子を探し回っている。時折、邦子を呼ぶ声がする。  大河原「いったいどこへ消えちまったんだ」  やがてどこからか悲鳴が聞こえる。私、声のほうへ駆け出す。  林のそばで旅館の女性従業員が立ちすくんでいた。  大河原「どうしたんですか」  女性従業員、震えながら前を指差す。浴衣《ゆかた》姿の邦子が倒れている。私、駆け寄って呼吸をたしかめる。  大河原「し、死んでる」  地元の警察に詳しい話をした後、私は再び現場に戻った。現場ではまだ検証の続きが行われている。他の旅館に泊まっていた客も集まっており、警官は野次馬の整理に大変そうだ。  それにしてもおかしい。  というのは事件のことではなく、この小説のことである。どうも小説らしくないのだ。ふと気づくと、奇妙な文体で構成された世界にはまっている。やはり『あれ』なのか。  考えにふけっていると、前で刑事の怒鳴る声がした。 「いかん、いかん。野次馬はあっちへ行きなさい。おい、誰か、この人を向こうへ連れていってくれ」 「どうしたんですか」私はそばにいた警官に尋ねた。 「いやね、探偵と名乗る者が、現場を見せろといってきかないらしいんですよ」 「探偵? 何という名前ですか」 「天下一とかいってますが」 「やっぱり」私は苦々しい顔を作る。  天下一大五郎とは、このシリーズ小説の主人公である。よれよれスーツにもじゃもじゃ頭、丸眼鏡とステッキがトレードマークというクラシックな探偵だ。そして私は常に彼の引き立て役をさせられている。 「その人物なら、私もよく知っています。わかりました。私から注意しましょう」そういって、警官たちの中へ入っていった。 「だから素人探偵の出る幕ではないといっているだろう」相変わらず刑事が喚《わめ》いている。いつもの私みたいだなと思いながら、彼等の前に出た。 「こら、君はこんなところまで来て、警察の邪魔を――」  そこまでいったところで絶句した。刑事たちと向き合っていたのは、いつもの天下一探偵ではなく、若い娘だったからだ。髪はストレートのロングで顔はアイドル系だ。ミニスカートから、長い脚が伸びている。 「あっ、大河原さん」  口をあんぐりと開けている私を見て、娘はうれしそうな声を出した。 「ねえ、この人たちにあたしのことを説明してやってよ。頭脳明晰、行動力抜群の名探偵天下一だって」 「き、き、君は、君は」唾を飲みこんでから続けた。「君はいつから女になったんだ?」  すると娘は怪訝な顔をした。 「あれ、大河原さん、知らないの? 今回、あたしは女なんだよ」 「なんでだ」 「だってこれ、二時間ドラマの脚本の世界なんだもの」娘はあっさりといった。「正確にいうと、日曜推理サスペンス劇場の脚本」 「二時間ドラマの脚本……。ううむ、やっぱりそうだったのか」  どうりで時々おかしな文体に変わるはずだ。あれは脚本のト書だったのだ。 「天下一シリーズも、とうとう二時間ドラマになっちまうのか」情けない声でいった。 「仕方ないんじゃない。作者がお金に目がくらんじゃったみたいだし」 「なげかわしい」がっくりと肩を落としてから、改めて彼女を見た。「しかし二時間ドラマだと、どうして君が女にならなきゃいけないんだ」 「あれ、知らないの? 二時間ドラマだと、大抵の場合、主人公は女に変えられちゃうんだよ。視聴者の大半が主婦だからさ、そうしないと視聴率を稼げないんだって。十津川警部だとか浅見光彦は例外なわけ」 「それで天下一大五郎も女にされちまったのか」 「まあね。名前は天下一亜理沙。東京の女子大の三年で、ミステリ研究会に所属ってことになってるの。よろしくね」  なげかわしい、と私はもう一度呟いた。 「で、その天下一亜理抄がどうしてこんなところにいるんだ」 「どうしてって、温泉につかりに来たのよ。たまには一人旅もいいかなと思って」 「なんだ、じゃあ俺と同じだな」そういってから私は唇を歪め、顔をこすった。「安直な設定だなあ。探偵役と脇役の警部が、それぞれ一人旅に行った先が偶然同じで、しかもそこで事件が起きるわけか。御都合主義なんて言葉を遣う気にすらならない」 「いいの、いいの。そんな固いことはいわない」天下一は顔の前で、ひらひらと掌を振った。「それに大河原さんは、ただの脇役じゃないんだから」 「どういう意味だ?」 「主人公の女子大生探偵、つまりあたしと恋愛関係が成立しそうな立場にいるの。だからテレビの前の主婦は、二人の関係がどう進展するかってことにも関心を示すってわけ」 「なんというありがちなストーリーだ」私はのけぞった。「それに俺が天下一探偵と恋仲? よしてくれ、気持ち悪い」 「今回の天下一探偵は、いつもの汚らしい男じゃなくてピチビチの女子大生なんだから、文句いうことないと思うけどな」天下一は、ぷっと頬を膨《ふく》らませた。 「まあ決まったことなら仕方ない。諦《あきら》めて、物語世界に戻るか」私はため息をついた。  藤原邦子の死については、地元の警察によって詳しいことが明らかにされていた。死因は青酸カリによる中毒死である。死体のそばに飲みかけのウーロン茶の缶が落ちており、それで流し込んだのだろうと考えられた。そして部屋には、「みなさん、お元気で。さようなら。藤原邦子」と書いた便箋《びせん》が残されていた。  また数人の会社の同僚が、「最近彼女はずっと元気がなかった」と証言している。特に捜査陣の関心を引いたのは、同僚の青木まさ子の話だ。  彼女によると、藤原邦子は失恋した直後だということだった。その相手というのは、やはり同じ会社にいる内田和彦という男らしい。邦子と内田とは、知る人ぞ知るという仲だったが、内田のほうが別の女子社員である坂本洋子と婚約してしまった。そのことで、ひどく落ち込んでいたというのが、青木まさ子の証言である。なお内田も坂本洋子も、職場が違うので、こちらには来ていない。  以上のことから、藤原邦子の死は覚悟の自殺ではないかという見方を、警察では強めているようだった。邦子の実家は冶金《やきん》工場なので、青酸カリも入手しやすい。そして青酸カリの入った瓶が、彼女のバッグから見つかっていた。  というような情報を集めてきた私は、事件の翌朝天下一と宿の近くの滝で会った。この滝は名所の一つで、ここでロケする以上は外せない場所なのだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  大河原「絶対に自殺なんてことはありえんよ」  天下一「ずいぶん自信たっぷりね」  大河原「昨日彼女は『温泉もなか』を買っていた。その時に、どのくらい日持ちするか店員に訊いているんだ。一週間ぐらいもつと聞いて、安心した様子だった。つまり彼女はあの菓子を、土産に持って帰るつもりだったんだ。そんな人が自殺なんてするかい」  天下一「たしかにおかしいわね。やっぱりこれは調べてみる価値がありそうだわ」  大河原「私も東京に連絡して、藤原邦子の周辺を調べてもらえるよう手配したよ」  天下一「久しぶりに面白そうな事件だわ。あたしの推理の見せ所ってところね」  大河原「おいおい、あまり出しゃばりすぎないでくれよ」  天下一「あら、あたしの推理のおかげで手柄をたてているのは、どこの誰かしら」 [#ここで字下げ終わり]  その時、天下一亜里沙、岩に足を滑らせる。それをあわてて支える私。二人の目が合うが、急いで離れる。二人、もじもじする――。 「なんという臭い芝居だ」私は頭を掻《か》きむしった。「今時こんなシーンを、誰が喜んで見るというんだ」 「そうはいっても、約束事みたいなものだからね」天下一はそばの岩に腰掛けた。「それよりも大河原さん、犯人の目星はついてるの?」 「いいや。君は犯人がわかったのか」 「まあね」天下一は片目をつぶった。「配役表を見ちゃったから」 「配役表?」 「山本文雄の役はね、岩風豪一がするんだよ」 「なに、あの岩風豪一が?」いってから私は大きく額いた。「じゃ、山本が犯人だ。二時間ドラマで岩風豪一といやあ、いつも犯人役だからな」 「でしょう?」 「しかしそんな推理はまずいだろう。役者で犯人を当てるなんていうのは」 「でもテレビの前の主婦は、そうやって犯人を当てて楽しんでるんだよ」 「それはそうかもしれんが、登場人物の我々がそれをやっちゃあいかんぞ」 「でもなんかこのストーリー、かったるくて。原作はいいはずなんだけどな」 「原作は何という作品なんだ」 「『幽閉された季節』という題名よ」 「なかなか凝《こ》った題だな。で、ドラマのタイトルもそのままなのか?」  私の質問に、天下一亜理沙はげんなりした顔でかぶりを振った。 「ドラマのタイトルは、『花のOL湯けむり温泉殺人事件』」  私は大きくのけぞり、もう少しで滝つぼに落ちるところだった。 「なんだ、なんだ、なんだ。どうして『幽閉された季節』が、花のOLなんだ。どうして湯けむりなんだ」 「それだけじゃないよ。正確にいうと、こうなるの。『花のOL湯けむり温泉殺人事件・三角関係の果ての死は果たして自殺か他殺か、秘湯の地を襲う恐怖と愛憎の迷路、女子大生探偵天下一亜埋沙とズッコケ警部登場』っていうのよ」  私は全身の力が技けてしまい、その場にしゃがみこんだ。こんなものに付き合わされた上に、ズッコケ警部よばわりされたのでは立つ瀬がない。 「あたしもさあ、おかしいと思うんだよね」天下一は岩に座ったまま腕組みをした。「小説をドラマにするのはいいんだけど、その場合、絶対に原作と違ってて、しかも必ずといっていいほど原作よりもつまらなくなってる。あれ、どういうわけだろうね。それとも脚本家とかは、こっちのほうが面白いと本気で考えてるのかな」 「面白いとか面白くないとかじゃなく視聴率だろう。原作の複雑なストーリーをそのまま出しちゃうより、多少陳腐でもわかりやすくして、適当に色恋を混ぜたりしたほうが視聴率がとれると考えているんじゃないのか」 「そういうことなんだろうねえ」天下一は長い息をふうーっと吐いた。「たとえばさあ、これだけ推理小説が氾濫《はんらん》してるっていうのに、テレビ関係者はドラマ向けの作品が少ないといって嘆いてるらしいんだよね。それ、あたしなんかはおかしいと思うわけ。昔に較べて現在の作家が書く小説のほうがはるかに視覚的だから映像化しやすいはずだもの。例を上げると、最近は優れたハードボイルドとか冒険小説も増えてきているけど、ああいうのもドラマにしたら面白いと思うよ」 「だけどテレビ関係者は、そういうのは二時間ドラマにはできないというわけだ」 「そう。一つは予算。もう一つは視聴率。主婦を中心とした女性しか見ていないから、というわけ」 「女性が主人公で、わかりやすいストーリーで、恋愛絡みでっていうのが、二時間ドラマ向きの作品だとテレビ関係者は考えてるわけだ。そんな条件に合う小説となれば、そりゃあ数が限られてくるわなあ」 「だから苦しまぎれに、男性主人公でも女性に変えちゃうのよね」自らもそうなってしまった天下一亜理抄は、長い髪をかきあげていった。 「最近はミステリの新人賞が多いけど、テレビ局がスポンサーみたいになってるケースが増えてきただろ。一千万円程度の賞金をポンと出したりしてな。あれも結局、ドラマの原作欲しさからなんだろう」 「たぶんね。まあだからといって、ドラマ化しにくい作品は受賞しないなんていうことはないそうだけど……」心配そうにそういいながら天下一は腕時計を見て、あわてて立ち上がった。「いっけない。宿に戻んなきゃ」 「何かあるのか?」と私は訊いた。 「ドラマが半分過ぎたのよ。九時からのドラマだと、ちょうど十時。皆がチャンネルを変える時間だから、あたしの入浴シーンで視聴者の目を引きつけなきゃ」  視聴者は大半が女性だと決めつけておきながら、こういうことをする。本当にテレビ業界とは不可解である。  この後物語世界では、東京に戻った天下一探偵が関係者の一人一人に当たって、隠されていた様々な事情を聞き出していく。そこには一昔前の昼メロなみの愛憎ドロドロの人間関係なんかも絡んでくるのだが、これは無論視聴者が主婦層中心と考えているテレビ局側の配慮であって、じつのところ本筋とは関係がない。  やがて天下一の調査によって、死んだ藤原邦子が交際していた相手は内田和彦ではなかったらしいこと、そしてその相手の男の子供を流産したことがあるらしいことなどが判明する。  天下一は邦子の電子手帳を調べ、住所録から男の名前だけをピックアップしようとした。しかし男の名前は一つもない。そこで天下一は、住所録に書かれている住所と電話番号のすべてを一つ一つ確認していった。相手の男の名前を隠すために、女の名前を使っているかもしれないと考えたのだ。その推理は正しく、鈴木花子といういかにも偽名臭い名前で登録されていた電話番号は、山本文雄のものだった。また山本には、社長の娘との結婚話が持ち上がっていた。  天下一と私は都内の喫茶店で会い、推理を巡らせた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  大河原「すると、社長の娘と結婚するのに、藤原邦子が邪魔になった山本が彼女を殺したというわけか」  天下一「そうだと思う」  大河原「しかしあの時山本は、私と一緒に風呂に入っていたんだ。どうやって邦子に毒を飲ませる?」  天下一「それがトリックよ。大河原さんは、アリバイ工作に利用されたわけ」  大河原「えっ、どういうことだ?」  天下一「解剖によると、邦子さんは例の『温泉もなか』を食べていたらしいってことだったでしょ。でもそれは彼女が買ったものではなかった。彼女が買った包みは、荷物の中に開封されずに入っていたもの。つまり誰かから貰ったってことになるわね。あたし、毒はその中に入っていたんじゃないかと思う」  大河原「もなかの中に青酸カリが?」  天下一「あの夜山本と邦子さんは、あの場所でこっそりと会う約束をしていたんじゃないかしら。山本は邦子さんにこういうの。少し遅れるかもしれないから、これでも食べながら待っていてくれ。そうして毒入りの『温泉もなか』とウーロン茶を渡すってわけ」  大河原「なるほど。あの菓子は一口サイズだから、食べ残すってことがない。後に残るのはウーロン茶の缶だけだ。これじゃあ誰が見ても、自分の意志で飲んだと思うわけだ。うまいトリックだなあ」 [#ここで字下げ終わり]  ここで私は物語世界から離れた。うんざりした顔を作り、目の前のコーヒーを飲む。 「何がうまいトリックだ。子供|騙《だま》しにもならんじゃないか、こんなもの」 「二時間ドラマのトリックは、この程度でいいってことじゃないの」天下一も、やや捨て鉢な口調でいった。  再び作品世界に戻る。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  大河原「でもまだ謎は残っているぞ」  天下一「わかってる。遺書のことでしょ」  大河原「そうだ。警察の鑑定によると、本人の筆跡に間達いないということだった」  天下一「文面はたしか、『みなさん、お元気で。さようなら。藤原邦子』だったわね。うーん、この点が問題なのよねえ」 [#ここで字下げ終わり]  その時二人の横から声がする。女子高生らしき二人、相談しながら手紙を書いている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  女子A「ええと、最後はどう書けばいいの?」  女子B「適当なこと書いとけばいいのよ。みなさん、お元気で。さようなら、とかさ」  女子A「ああ、そうか」  天下一と私、顔を見合わせる。  天下一「手紙だわ。邦子さんが書いた手紙の一部を遺書に転用したのよ」 [#ここで字下げ終わり]  二人、椅子から立ち上がる。 「なんという安直な展開だ」またしても作品世界から外れ、私は頭を抱えた。「遺書のトリックも御粗末だが、それを解くきっかけがこんなに御都合主義でいいのか」 「仕方ないよ。だってそろそろ話を終わらないと、二時間枠におさまらないもの」  天下一がいうように、ここからは急転直下で真相が明るみになる。まず山本文雄の親戚にメッキ工場があることが判明し、最近山本が訪れたことがわかる。そしてその工場で保管していた青酸カリが減っていた。  次に藤原邦子が、学生時代に所属していたサークルに手紙を出していたことが明らかになる。学生の一人がその文面を覚えていたが、その最後は、『みなさん、お元気で。さようなら。藤原邦子』というものだったらしい。しかも天下一が、その手紙を見せてくれというと、紛失してしまったという。さらによく訊いてみると、最近見知らぬ男が部屋の近くをうろついていたようだ。人相を聞いてみると、山本文雄に間違いないようだった。  こうしてバタバタと事件の全貌が明かされたわけだが、さてここから探偵天下一はどうするか。  ふつうなら警察に知らせておしまいである。あとは刑事の仕事のはずだ。しかし二時間ドラマの主役は、なぜかそうはしない。犯人を人気のないところに呼び出し、自分の推理が正しいかどうかを確かめようとするのである。  で、今回も天下一は山本を港に呼び出す。どういうわけか、こういう場合、場所は常に港なのだ。  天下一と私が待っているところへ山本が登場する。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  山本「僕に用って何ですか。仕事が忙しいので、あまり時間がないんですが」  天下一「お時間はとらせません。あなたが本当のことを告白してくださるなら」  山本「本当のこと? どういう意味ですか」  天下一「邦子さん殺しについてです。山本さん、あなたが彼女を殺したんでしょう」 [#ここで字下げ終わり]  山本、一瞬ぎくりとするが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  山本「なにをデタラメを」  天下一「デタラメじゃありません。あなたは次期社長の座が欲しくて、恋人だった邦子さんを殺したんです」 [#ここで字下げ終わり]  この後天下一の極めて説明的な台詞が延々と続く。この場面での役者の演技は難しいだろうなあと、私は他人事ながら気の毒になった。特に犯人役のほうが大変だ。探偵役がだらだらと説明しているのを、ただぼーっと聞いているわけにもいかない。一通りの解説を終えたところで天下一がいう。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  天下一「もう言い逃れはできません。観念しなさい」  山本「クソッ」 [#ここで字下げ終わり]  山本、逃げようとする。すると周囲から警察官が飛び出してくる。  刑事A「山本文雄、殺人容疑で逮捕する」  よくこういうシーンがあるが、考えてみれば思い切り奇妙である。あの警官たちは何故に、素人探偵が犯人相手に謎解きをしているのを、わざわざ隠れて聞いているのであろうか。隠れているところを想像すると笑ってしまう。  追い詰められた山本は、堤防の縁に立つ。  刑事B「やめろ、山本」  山本、フンという顔。今にも海に飛び込みそうな気配。  だがこの時、山本はふと物語世界を外れた顔になった。 「俺にも一言いわせてくれ」と山本はいった。「あんたたち主役たちにも文句はあるだろうが、小説が二時間ドラマになった時、一番被害が大きいのは犯人なんだ。この事件にしたってなあ、原作によると、もっともっと複雑で巧妙なトリックが使われている。ところが説明が大変だってことで、あんな簡単なものに変えられたわけだ」 「そうだったのか」と私は呟いた。 「何よりも大きいのは動機さ。本当はな、もっと深い殺人動機があるはずなんだ。だけど、差別問題に微妙に関わってくることで、単なる愛情のもつれってことにされちまった。そこのところ、わかってくれよな」 「わかるわ」と天下一が横からいった。「よくわかってる」  山本はちょっと嬉しそうに頷いた。その後またドラマの顔に戻った。  警察官が彼を取り囲む。  刑事A「捕まえろ」  山本「ちくしよう」  山本、海に飛び込む。ちょうどそこへ潜水艦が通りかかる。山本、潜水艦に当たって死ぬ。 「なんだ、なんだ。どうしてこんなところに潜水艦がいるんだ」海を見下ろして私はいった。 「最初はここ、車に轢《ひ》かれて死ぬことになってたんだよね」天下一がいう。「でもそれはまずいってことで、書き替えられたんだって」 「なるほど」  この二時間ドラマのスポンサーが自動車メーカーだったことを思い出しながら、私は海に向かって合掌するのだった。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第七章 切断の理由――バラバラ死体 [#改ページ]  今回は、ちょっと気味の悪い事件である。  ×県|切裂《きりさき》町のはずれに、糸鋸《いとのこ》山という標高数百メートルの山がある。そこの森の中で死体が発見されたのだ。  ただし尋常な発見のされ方ではない。  サイクリングでここまで来た若い男女二人が、一休みついでに性行為に及ぼうとしたところ、地面から人間の手首のようなものが生えているのを見つけたのだ。よく見るとそれは手首のようなものではなく、手首そのものだった。  女は悲鳴を上げ、男は失禁した。  知らせを受け、すぐに県警本部から捜査員が派遣された。そしてその捜査の指揮をとることになったのが、私こと大河原番三である。  現場が掘り起こされ、死体が次々に見つかった。  次々にといっても、何人もの死体が埋まっていたわけではない。死体はたぶん、一人であろうと思われた。  まず手首、続いて太股、尻、肩、二の腕……というように見つかったのだ。首は一番最後だった。髪が長いことから、おそらく女だろうと見当がついた。  いわゆるバラバラ死体というやつである。掘り出されるのを見ているだけで気分が悪くなってきた。こういう大事件に慣れていない田舎巡査などは、森の中に飛び込んで、げえげえとやっている。 「ううむ、なんという残酷なことを」ハンカチを口にあて、私は呻《うめ》いた。  その時である。後方から聞き覚えのある声がした。「ちょっとすみません。ちょっとだけ通して下さい」  私は振り返った。チェック柄のよれよれスーツに丸眼鏡、片手にステッキを持ったもじゃもじゃ頭の若い男が、警官の制止をふりきってロープの内側に入ろうとしていた。 「通してやれ」と私は警官にいった。  自称名探偵の天下一大五郎が、私のところへ寄ってきた。「こんにちは、大河原警部」 「そろそろ現れる頃だと思っていたぞ」 「どうしてです」 「どうしてって、そりゃあ君……」いいかけて咳払いした。「なんとなくだ」  小説のタイミングとしてそろそろ、とはいえない。 「すごい事件が起きましたね」深刻そうな声で天下一はいった。が、その目は珍しい玩具《おもちゃ》を与えられた子供のように爛々《らんらん》と輝いている。 「まったくだ。俺のカンだが、こいつは厄介な事件になるぞ。何しろ死体がこれだ。まず被害者が誰なのかを突き止めなきゃならん」 「そのことですがね、たぶん被害者は僕が探している女性だと思うんですが」 「なに、君が?」私は目を剥《む》いた。  天下一によるとこうだ。二日ほど前、彼のところに妻を探してほしいという依頼があった。頼んだのは、切裂町で小学校の教師をしている清井という中年男だ。その時点で三日前、今日からだと五日前の日曜日に、妻が買物に行くといって出かけたきり帰らないということだった。  早速清井を呼んで遺体を確認させることにした。ところがひょろりと痩《や》せ、いかにも気の弱そうな清井は、バラバラ死体と聞いただけで失神しそうになり、とても確認などできそうにない。結局、妻が通っていた歯医者というのを連れてきて、歯型をカルテと照合することになった。その結果、清井の妻、花枝に間違いないことがわかった。 「花枝が出かけたのは日曜の午後三時頃です。服装は紺色の長袖シャツに白のスラックス。買物|籠《かご》を提げていたようです。所持金は詳しくはわかりませんが、夕飯のおかずを買える程度のものだったと思われます」天下一が、表紙がぼろぼろになった手帳を見ながらいった。ここは捜査本部の置かれている、××警察切裂出張所の会議室である。被害者の夫清井が、妻がバラバラ死体にされたことで痴呆状態に陥って入院してしまったため、今日まで花枝探しを行なっていた天下一から話を聞いているのである。 「買物途中の花枝を目撃した者はいるのかな」 「本屋に立ち寄ったのを店の主人が覚えていました。雑誌のコーナーを見ていたようです。目当ての雑誌があるようなので、何かお探しですかと尋ねたら、気まずそうにもじもじした後、結局何も買わずに出ていったそうです」 「ふうん。ほかには?」 「僕が調べたかぎりでは、ここまでです。これ以後、花枝の足跡は途絶えています」 「本屋が最後か。ふうむ」私は腕組みをした。「すると本屋を出た直後に襲われたということになるな。晩飯のおかずを買いに出たんだから、本来なら八百屋や魚屋で顔を見られているはずだからな」 「でも本屋から八百屋や魚屋のある商店街までは二百メートルほどしか離れていないし、しかも一本道ですよ。人通りが少ないわけじゃないし、夜中ってわけでもない。そんな状態で襲われるなんてことがありますかね」 「ううむ」私は唸《うな》った。「じゃ、どうだというんだ」 「僕は花枝が買物に行くといったのは口実だと思いますね。本屋の後、自分の意志で商店街とは別の方向に歩いていったんですよ」 「なぜそんなことを」  すると天下一はにやにやした。「人妻が旦那に嘘をついて家をあけるといえば、その理由は一つしかないじゃないですか」 「浮気か」私は頷《うなず》いた。「よし、花枝の交際関係を洗ってみよう」 「その点ですがね、花枝は青空ひばり会というコーラスグループに所属しているんです。週に一度は集まって稽古しているということですが」天下一は壁に貼ってあるカレンダーを見て、ぽんと手を叩いた。「都合のいいことに、今日がその練習日です」 「よし」私は立ち上がった。「じゃあ早速話を聞きに行ってみるか」 「僕も行きます」天下一も立った。 「いや、君はもういい。ここからはプロがやる。素人探偵の出る幕ではない」 「いえ、これは僕が依頼された事件でもあるんです。だめだといわれてもついていきますよ」 「ふん、勝手にしたまえ」  主人公探偵と脇役警部による、恒例のやりとりをしたあと、我々は捜査本部を出た。 「いやあしかし、ついにこれが出ましたね」  少し歩いてから天下一が私の耳元で囁いた。 「これとは?」 「バラバラ死体ですよ。じつは、そろそろ出るんじゃないかと思っていたんです」天下一の顔は、小説を離れたものになっていた。 「うん、まあ、それは俺もそうだ」私もいっとき役柄を忘れて答える。 「本格推理でバラバラ死体を扱う場合は、やっぱりその理由がポイントになってくるでしょうね。なぜ死体を切り刻んだのか。その点に、しっくりした説明がないと、消化不良に終わってしまいます」 「現実的に考えると、やっぱり死体を運びやすいというのが一番だろうなあ」 「そうですね。でも本格推理の世界では、そんな理由じゃ面白くない。それに今回見つかった死体は、切り刻み方が徹底しているでしょ。腕だけをとっても、手首、下腕、上腕というように三つの部分に切断されている。単に運びやすくするためだけなら、ここまでする必要はないはずです」 「身元を隠すためというのも、現実の事件では時々あるが……」 「あれはバラバラ死体というより、『首のない死体』でしょ。推理小説のテーマとしては本質的に違うものです。しかも今度の死体には首があるし、指紋も潰されていなかった。身元を隠すという意図は感じられません」 「それ以外の理由となると、ちょっと思いつかんな」私は早くもギブアップした。 「あと実際の事件でいえば、犯人が食っちまうというのがありましたよ。被害者の女性は犯人の恋人でした」 「ああ、そうだなあ」私は顔をしかめた。「事実は小説よりも奇なりってとこか」 「あの時の犯人によると、いかにもおいしそうな乳房はじつは脂っ気が多く、しつこくて食えないそうですね。旨いのは太股の内側だそうです。トロみたいだって書いてました」 「やめてくれ。想像しただけで胸が悪くなる」  天下一は悪戯《いたずら》っぽく笑った。 「死体を犯人が食べてしまうというのは小説にもあるんです。でもこれは死体をどう処分したのかという点が謎になっているわけで、やはり『バラバラ死体もの』とは根本的に違うものです。あとそれから犯人が異常者で、単に猟奇的趣味からバラバラにしたなんてのも本格では通用しません」 「何か論理的な理由が必要だというわけだな」 「僕は必要だとは思わないんですが、読者が黙っちゃいないでしょう。画期的なトリックを実行する上で必要、というのであれば理想的なんですがね」 「そういう小説は、いくつかあるな」二、三の作品を頭に思い浮べながら私はいった。 「ありますね」天下一は頷いてから、小声で付け加えた。「ただし大抵のトリックは現実には実行不可能です。おどろおどろしい雰囲気を作りだして、読者を煙に巻いてはいますが、よく考えると、そんな馬鹿なというトリックばかりです。法医学を完璧に無視したのも多いし」 「仕方がないだろう、それは」 「仕方がないんでしょうね」そういってから天下一は片目をつぶった。「あまりこんなことばかりいうと、自分の首を絞めることになりますしね」 「そういうことだ。作者だって困ってるぞ」  我々は顔を見合わせ、くすくす笑った。  青空ひばり会の稽古は、牛山という町医者の自宅の応接間で行われるということだった。我々が行くと、花枝を除く会員九人全員が集まっていた。稽古のためではなく、花枝の死亡に関する情報交換のために集合したということだった。狭い町だけに、事件のことはすでに知れ渡《わた》っているようだ。事情聴取するには都合がいい。  まず全員を前に、事件について何か心当たりはないかと質問してみた。 「花枝さんを殺そうとする人間がいたなんて、とても信じられないな」この家の主人である牛山が、太い身体を揺すりながらいった。九人のうち、男性は彼を含めて三人だった。 「優しい人でしたわ」 「ええ、それはもう。おとなしくて、誰にでも親切で」 「なんということでしょう」  女たちが涙声を出し始めた。 @@@  私はいくつか質問をしながら、三人の男を観察した。牛山は人間は悪くはなさそうだが、鈍感そうで、繊細さに欠けるところがある。女たちに嫌な顔をされていることにも気づかず、バラバラ死体に関する自分なりの知識を披露したりしている。  反対に神経質そうなのは郵便局員の羊田という男だ。あまりしゃべらず、ついこちらがその存在を忘れてしまいそうになるほど影が薄い。顔色が悪いが、それが本来のものなのか、花枝の死を知ったからなのかはわからなかった。  三人の中で一番若い狐本という男は、一見二枚目風だが、小狡そうな一面が時折顔を覗かせる。清井花枝の死を悲しむ言葉も、どこかとってつけたようなところがあった。  この後、花枝と一番親しかったという猫村タマ子一人から話を聞くことにした。タマ子は同じ町内で洋品店を経営していた。  花枝は浮気をしていたのではないかという私の問いに対し、タマ子は自分がしゃべったことは内緒にしてほしいと前置きした上で、こんなことをいった。 「花枝さん、旦那さんにはいろいろと不満があったみたいです。男性的な魅力を感じないともいってました。ところが最近になって、急に生き生きとしてきたんです。綺麗になったみたいでした。きっと恋人ができたのだと思います」 「相手はコーラスグループの男性とは考えられんかね」  するとタマ子は、まさかという顔をした。 「それはないと思いますわ。牛山さんはああ見えてもすごい恐妻家ですもの。狐本さんのことは、花枝さんが嫌っていましたから論外だと思います」 「羊田さんはどうです」天下一が訊いた。 「それは絶対にないと思いますわ」 「どうしてです」 「だって花枝さんとは趣味が合わないと思いますもの」タマ子はなぜか意味あり気に、にやりとした。  それでも一応、コーラスグループの三人の男について調査してみることにした。そのうちに牛山が怪しいということになった。自分では恐妻家などといっているが、妾が三人もいたのだ。しかも花枝に色目を使っていたフシもある。早速警察に呼び出し、締め上げることにした。 「観念して白状したらどうだ。おまえが犯人なんだろう」 「違います。私じゃありません」 「とぼけるな。医者なら死体を切り刻むのも慣れているはずだ」 「そんな無茶苦茶な」  無茶苦茶をいうのは、この小説における私の仕事である。が、やがて牛山にはアリバイのあることが判明し、やむなく釈放することになる。  次は狐本だ。花枝を口説こうとしたが、拒絶された腹いせに殺したのだというのが我々の推理だった。これまた根拠のない無茶苦茶である。 「無茶苦茶だ」狐本も取調べ室で、そう喚《わめ》いた。  そして狐本にもアリバイのあることがわかる。これまた釈放である。  羊田についても、とりあえず身辺調査がなされる。だがその報告は次のようなものだ。 「朝から晩まで一日中、切手を貼っているような地味な男です。あんな奴に殺しなんて大それたことはできませんよ」  これに対する私の対応がこうである。 「そうか。よしほかを当たろう」  不思議なほどあっさりと手を引くのである。  そして改めて花枝の身辺が調査される。だが男の影は浮かんでこなかった。 「現場周辺の聞き込みをもう一度徹底的にやろう。死体を埋めた時の目撃者が見つかるかもしれん」次なる号令をかけた。しかし収穫はなしだ。  捜査本部で私は頭を抱えた。「ううむ、一体どうしたものかな。今度の事件ばかりは、さすがの俺にも手におえんぞ」 「僕はやはり、犯人が死体をバラバラにしたところに鍵が隠されてると思いますね」いつの間にか隣にきていた天下一がいう。 「どう隠されているというんだ」 「気になるのは、なぜあんなに細かく切り刻んだのかということなんです。しかもめちゃくちゃに切ったわけではなく、ある程度規則正しくもあるんです。左右対称ですしね」 「犯人が、几帳面《きちょうめん》な性格の変質者なんだろう」私は適当にいった。 「そうだ、いいことがある」天下一が急に立ち上がり、部屋を出ていった。 「どこへ行くんだ」 「いいから、ついてきてください」  天下一の後についていくと猫村タマ子の洋品店についた。タマ子は住み込みの若い女店員と二人で店にいた。 「ちょっとお願いがあるんですが、裸のマネキンを一体貸していただけないでしょうか」天下一はタマ子にいった。「捜査のために必要なんです」 「あら、探偵さん。いいですわよ」タマ子は快諾《かいだく》し、そばに置いてあったマネキンのワンピースを脱がした。 「それから墨と筆を」 「はいはい」 「おい、君。いったい何をする気だ」 「まあ見ていて下さい」そういうと天下一は手帳を見ながら、墨をつけた筆でマネキンに線を描き始めた。まず首の周りに線を引き、続いて胸の上、胸の下、腕の付け根、肘というように引いていく。 「探偵さん。何ですの、それ?」タマ子が不安そうに訊いた。 「清井花枝さんの切断部分を明確にしているんです。ここに犯人の何らかの意図が隠されているはずですから」 「まあ面白そう」横で若い女店員が、そういってから自分の口を押さえた。  天下一がすべての線を引き終えた。マネキンの身体は線だらけだ。さっき彼がいったように、犯人がいかに細かく切断したかがよくわかる。  マネキンを眺めて天下一がいった。「どうです大河原さん。この切断線には何となく法則性があるように感じられませんか」 「ううむそういえば」私もマネキンを見て呟いた。「どこかで見たことがあるような気がする」 「そうでしょう。僕もそう感じているんですが、どうも思い出せなくて」  その時猫村タマ子が、「あっ」と小さく声を漏らした。 「どうしました?」と私は訊いた。 「いえ、なんでもありません」タマ子はうつむき、かぶりを振った。 「紛らわしい声を出すんじゃない」注意してから私は天下一を見た。「考えすぎじゃないのか。やっぱり犯人は適当に切っただけだぞ」 「いやあ、そうは思えないなあ」  すぐには頭が閃《ひらめ》きそうにないと思ったか、天下一はマネキンをしばらく貸しておいてくれないかとタマ子にいった。商売道具を持っていかれることに彼女はあまり乗り気ではなさそうだったが、知り合いが殺された事件の捜査に協力しないのはやはりまずいと思ったらしく、結局は承諾した。  この後も私は部下に聞き込みを命じたり、時には怪しそうな人間を警察に呼びつけて尋問したりした。しかし収穫はゼロである。この小説における私の役目がそういうことなのだから、これは仕方がない。 「天下一はどうした、このところ姿を見かけんが」私は部下の警官に訊いた。 「はあそれが宿にもいないようです」 「宿にも? どこへ行ったのかはわからんのか」 「ええ。宿の主人によると、ふらりと出かけたきりだそうです。宿賃は払ってあるので問題ないようですが、例のマネキンを部屋に置いたままなので、気味が悪いといっていました」 「そいつは宿屋の主人も災難だな。まあおそらく天下一は、素人探偵の限界を痛感して、尻尾を巻いて逃げ出したんだろうよ」そしてがっはっはと笑うというのが、私の役どころである。  そこへもう一人の警官が飛び込んできた。 「警部、大変です。また一人、行方不明者が出ました」 「なに、誰だ?」 「洋品店の女主人です」 「猫村タマ子かっ」私は声をはりあげた。  部下を引き連れて駆け付けた。洋品店では先日の若い女店員が一人で待っていた。彼女の話によると、タマ子は昨夜出かけたきり、ずっと帰らないのだという。 「どこへ行ったのかはわからんのか」と私は訊いた。 「はい。何もおっしゃいませんでしたから」 「出かける時の様子はどうだったかね?」 「それがひどく思い詰めた様子でした。あの、じつをいうと、この前警部さんがあの探偵さんと一緒に見えた日から、なんとなく店長の様子がおかしかったんです」 「なんだと。ううむ、それならなぜもっと早く知らせないのだ」 「すみません。勝手なことをすると店長に叱られると思って」女店員はしくしくと泣きだした。私は苦い顔をする。 「ちょっと通してください。ちょっとすみません。通してください」前にも聞いたことがあるような声がした。天下一が人をかきわけて店の中に入ってきた。 「なんだ、君は。今までどこで何をしておったのだ」 「いろいろと調査を。それより、今の話は本当ですか」  天下一は女店員に訊いた。彼女は機械仕掛けの人形みたいに首を縦に動かした。  天下一は頭をかきむしった。「ううむ、しまった。そうだったのか。僕としたことが、なんて迂闊《うかつ》だったんだ」 「おい、なんだ。一体どうしたというんだ」 「大河原さん、急ぎましょう。もしかしたら、もう手遅れかもしれない」 「手遅れ? どういうことだ」  だがこの質問には答えず、天下一は飛び出していった。やむをえず私も部下を連れて奴の後を追った。着いたのは、古い一軒家の前だった。表札には羊田とある。 「なんだと、すると犯人はあの郵便局員か」 「そうです」  天下一は門をがんがんと叩いた。しかし反応はない。 「ぶち破りましょう。タマ子さんの命があぶない」 「よし体当たりだ」私は部下に命じた。  門を破ると、次は玄関の戸を壊して、我々は中へ侵入した。だが家の中に羊田の姿はなかった。 「留守じゃないのか」と私はいった。 「そんなはずはありません。どこかでタマ子さんを監禁しているはずです。あるいはすでに……」その後を続けるのを天下一はためらった。 「裏庭に物置があります」部下の一人が報告しに来た。 「よし、行ってみよう」  裏庭に行くと、なるほど物置にするには立派すぎると思えるような小屋があった。警官たちは遠巻きにしている。その中を天下一が近づいていき、戸に耳をくっつけた。そして後ろにとびのく。  彼はいった。「そこにいることはわかっているんだ。出てきなさい」  すると数秒して戸が開き、羊田の気の弱そうな顔が現れた。彼は庭に跪《ひざまず》くと、ぶるぶると震えながら訴えた。「助けてください。勘弁してください。花枝さんを殺すつもりはなかったんです。あれは事故なんです。信じてください」 「なに、事故だと。どういう意味だ」私は怒鳴った。 「首を……首をちょっと絞めすぎたら死んじゃったんです」 「首を絞めた? 馬鹿もの。それを殺したというんだ」 「違うんです。違うんです」羊田はは洟《はなみず》を垂らして泣きだした。 「猫村さんはどこですか」天下一が訊いた。  羊田は物置を指差す。天下一は中に入ると、「大河原さん、来てください」と呼んだ。  入っていくと、猫村タマ子が全裸に近い状態で縛られているのが見えた。目のやり場に困りつつも、目をそらさずにいった。「死んでるのか」 「いえ、気を失っているだけのようです。それより大河原さん、この縛り方を見て何か思い出しませんか」 「縛り方? ううむ」しばらく眺めているうちに気がついた。「あっ、あのマネキンの」 「そうです」天下一は頷いた。「ロープの位置が、あのマネキンに線を引いた場所と同じなんです。そしてそれはいわゆるひとつの」彼は咳払いして続けた。「SM縛りというやつなんです」  あっと思わず声を上げた。 「どこかで見たことがあると思ったが……そうか」 「このことに気づいて僕は、犯人はSM趣味の人間だと見抜き、SMプレイを売り物にする風俗産業を調べて回っていたんです。その種の人間なら、きっとそういう店にも出没しているに違いないと考えましてね。そしてついに羊田氏が、ある店の常連客だということを突き止めたのです」 「なるほどそういうことだったか」  我々は物置から出た。羊田はまだ泣いていた。泣きながら告白した。 「花枝さんと付き合い始めたのは、ひと月ほど前からです。彼女にSM志向があることを見抜き、私のほうから近づきました。途端に意気投合しまして、しばしば私の家でプレイにふけりました。花枝さんはすっかり夢中でした。ご主人との性生活に飽きておられたようでした」 「花枝さんが本屋で買おうとしたのはSM雑誌だったのですよ」天下一が補足した。 「それで?」と私は羊田を促す。 「ですからさっきもいいましたように、あの日はエキサイトしすぎまして、それで首を絞めすぎて」洟をずるずると啜った。「あれは事故なんです。弾みなんです」 「じゃあなぜ警察に届けなかったのだ」 「だって、そんな、体裁の悪い」 「馬鹿もん、人が死んでるのに体裁も盆栽もあるか」 「すみません、すみません」羊田は地面に額をこすりつけている。 「猫村さんも、あなたのSM相手だったのですね」天下一が訊いた。  羊田は頷いた。 「彼女は私が犯人だと気づいて、ここへ来たんです。騒がれるとまずいと思い、監禁してしまいました。でも殺す気はありません。なんとか黙っていてくれるよう説得するつもりでした」 「単に監禁するつもりなのに、あんな縛り方をしたのか」と私は訊いた。 「はあ、あの、人を縛るといえば、あれしか知らないんです」 「じゃあなぜ裸にした」 「それはまあ、つい趣味で……」羊田は頭を掻いた。  猫村タマ子の身体のロープがほどかれた。この頃になってようやく彼女も気がついたようだ。何が起こったかわからず、きょろきょろしている。 「よし、では最後の質問だ。なぜわざわざ死体をバラバラにした」 「それは……」 「それは僕がお答えしましょう」全部犯人に白状されては格好がつかないと思ったか、天下一が一歩前に出た。「花枝が死んだ時の状況を考えてみて下さい。その身体には、ロープの跡がくっきりと残っていたはずです。そのまま死体を捨てたのでは、SM趣味の人間が犯人だと宣伝するようなものです。特に猫村さんには一発でバレてしまいます。そこでそのロープ跡をカムフラージュするため、その部分で死体を切断したのです」 「おお、そうか」私はぽんと手を叩いた。「ううむ、そうだったのか」続いて腕を組んで唸った。「なるほど。さすがは天下一君だ。今回はどうやら君にしてやられたようだな」 「いやあ、それほどでも」  天下一がわっはっはと笑った時、羊田が口を開いた。 「あのー、そうじゃないんですけど」 「なに?」笑いを止めた天下一が羊田を睨んだ。「そうじゃないって、じゃあどうだというんです」 「はあ、あの、バラバラにしたのはですね、なんとなく切りたくなったからなんです」 「なんとなくう?」 「ええ。私、郵便局に勤めてるでしょ。毎日毎日切手を扱ってる関係で、ああいうのを見ると、つい切らなきゃ我慢できなくて」  そういって彼が指差したのは、ロープをほどかれた猫村タマ子の身体だった。  ロープの跡は、くっきりとしたミシン目になっていた。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第八章 トリックの正体――??? [#改ページ]  天下一大五郎が黄部矢一朗の屋敷に呼ばれたのは、五月の半ばのことであった。  先代が別荘として建てたというその屋敷へ行くには、鬱蒼《うっそう》とした樹海を横切っていかねばならなかった。その道にしても舗装されておらず、幅もさほど広くない。少し幅のあるけもの道と交差していたりすると、間違えてそちらに入ってしまいそうだった。  天下一が樹海に入ったのは昼過ぎである。晴れており、ふつうの場所にいれば太陽の光がアスファルトに照りつけて眩《まぶ》しいほどだろうが、天下一の周りは薄暗いとさえいえた。彼はしばしば立ち止まり、自分が通ってきた道を振り返った。もしや間違えてやしないかと不安になるからだ。  不安なまま歩いていると、前方に人影が見えた。天下一はほっとして足を速めた。人影は女だった。道の真ん中で、ぽつんと立っている。髪が長く、薄いブルーのワンピースを着ていた。若い女だな、と天下一は期待半分に推理した。 「どうしました?」と天下一は声をかけた。相手は振り返った。あら、という顔をした。天下一はさらに訊いた。「道に迷いましたか?」 「いえ、あの、迷ったというほどではないんですけど、誰も通らないものだから不安になってしまって。ここへ来るのは久しぶりですし……」細く小さな声で彼女はいった。 「黄部さんの屋敷に行かれるんですか」 「はい」 「それなら僕と同じだ。一緒に行きましょう。じつをいうと僕も一人きりで心細かったんです」  天下一がいうと、まあという顔で女は笑った。  赤井留美、と女は名乗った。今回ここへ来た理由は、遺産相続の手続きをするためということだった。先日、黄部家の先代主人である雅吉が癌で亡くなったため、呼ばれたらしい。留美は黄部雅吉が二人目の妻に産ませた子供だが、十年前にその母親が病死すると同時に、母親の実家に預けられたのだという。赤井は、彼女の母親の旧姓だ。 「すると黄部矢一朗氏とは異母兄妹というわけですか」 「そうです」 「なぜお母さんの御実家に?」 「あたしのためにはそのほうがいいと父が考えたのだと思います」 「あなたと矢一朗氏との仲がうまくいかなかったということは?」 「それはありませんわ。兄はとても優《やさ》しくしてくれました」留美はムキになっていった。  やがて森が開け、大きな建物が目の前に現れた。「十年ぶりだわ」と天下一の隣で留美がいった。  玄関に現れたのは中年の小男と、痩《や》せた品の良い婦人だった。婦人は留美を見て、大きく両手を広げた。「まああ、留美ちゃん。久しぶりねえ。綺麗《きれい》になって。びっくりしちゃったわあ」 「お義姉《ねえ》さんこそ、相変わらずお若くて」 「そんなことないのよ。もうだめ、あたしなんか。それより、さあ、中に入ってゆっくりしてちょうだい。青野さん、この子が留美ちゃんよ。部屋に案内してあげて」  青野と呼ばれた小男は、留美の荷物を持ち、「どうぞ、こちらへ」といって廊下を歩きだした。留美は彼の後についていった。  次に婦人は天下一を見た。「お待ちしておりました。主人は離れにおります」 「離れといいますと?」 「御案内いたします」  天下一が連れていかれたのは、母屋の隣に建っている家だった。一階の応接室で少し得たされている間、天下一は本棚を眺《なが》めた。歌舞伎や宝塚関係の書物が多かった。やがて先程の婦人――矢一朗の妻の真知子が彼を呼びにきた。矢一朗は体調がすぐれないので、自室で会うという。天下一は真知子夫人に導かれ、二階の部屋に入った。  窓際にベッドが置かれ、一人の男が横になっていた。男は夫人の手を借りて上半身を起こした。 「私が黄部矢一朗です。足を患《わずら》っており、こんな格好で失礼します」と男はいった。「あなたに来ていただいたのはほかでもない。ある男のことを調べてもらいたいのです」 「ある男といいますと?」 「あの男です」矢一朗は窓の外を指した。天下一が見ると、母屋の一階の窓から若い男が顔を覗かせていた。 「あの人は?」 「灰田次郎という男です」矢一朗は答えた。「父の隠し子だといっています」 「えっ」天下一は目を剥《む》いた。  黄部矢一朗の話によると、灰田が現れたのは三日前らしい。彼を自分の子供と認めるという黄部雅言直筆の書状を持っており、したがって自分も遺産を相続する権利があると主張している。またたしかに雅言の遺言状には、かつて自分がそういう書状を書いたことがあり、それを持ってきた者を息子として認知すると書かれているということだった。だが矢一朗としては、俄《にわか》に男のいうことを信用する気にはなれない。その書状が本物かどうかも疑わしいという。 「そこであなたに調べてもらいたいというわけです。やっていただけますか」 「わかりました。なんとかやってみましょう」 「それはよかった。今日はここにお泊りになってください。調査は明日からで結構です。あなたの調査結果が出るまでは、相続手続きは引き延ばすつもりです」 「最大限の努力をします」と天下一は答えた。その夜は黄部家の母屋にある食堂で晩餐会《ばんさんかい》が開かれた。といっても客は赤井留美に灰田次郎、そして天下一の三人だけだ。矢一朗は動けないので、自室で食事をとっているということだった。真知子と運転手兼料理番の青野が客の相手をした。 「黄部雅吉氏の遺産となると、金額にしてどの程度ですかね」灰田次郎が訊いた。  あけすけな質問に真知子は顔をしかめながら、「詳しいことは弁護士の先生にお前ねしないとわかりませんわ」と答えた。 「でも一生遊んで暮らせる額であることはたしかでしょうな」 「遊ぶためにお父様の遺産を使うなんて、最低だと思います」留美がいった。 「おや、そうですかい」灰田がにやにや笑う。「じゃああなたは何に使うおつもりで?」 「まだ考えてませんわ、そんなこと。でも無駄に使うぐらいなら、恵まれない方に寄付したほうがましだと思います」 「それはいいお考えだ」と灰田はいった。「ではあなたのために恵まれない人間を一人紹介しましょう」そういって彼はナイフで自分の鼻を指した。「俺です」  がたんと音をたて、留美は立ち上がった。彼女は唇を咬《か》んだ後、真知子と青野に向かって食事の礼をいうと、足早に食堂を出ていった。そんな彼女を見送りながら灰田はクックックッと笑った。真知子は彼を睨《にら》んでいた。  天下一が与えられたのは、二階の東側の部屋だった。すぐ真下が灰田の部屋で、斜め下が留美の部屋に当たる。そして窓を開けると、ほぼ正面に離れの矢一朗たちの部屋が見えた。  天下一が風に当たっていると、目の前の窓が開いた。ベッドから上体を起こした矢一朗の姿が見えた。 「おやすみなさい」と天下一は声をかけた。矢一朗は小さく頭を下げた。  銃声が聞こえたのはその時だった。  音は真下から聞こえたようだった。天下一は窓からぐいと身体を乗り出して下を見ようとした。ところが勢い余って彼はそのまま窓から飛び出してしまった。空中でくるりと一回転すると、地面で尻餅をついた。 「あ痛たたたた」尻をさすりながら彼は立ち上がり、窓から部屋を覗いた。男が一人、灰田の部屋を出ていくのが見えた。ベッドでは灰田が胸から血を出して倒れている。 「天下一さん、今の音は?」青野が一階の窓から顔を出した。  天下一は怒鳴《どな》った。「賊《ぞく》です。まだ屋敷の中にいます。玄関を封じて下さい」  彼は尻の痛みを我慢して窓から部屋に侵入すると、犯人の後を追って廊下に出た。隣の部屋から留美が飛び出してきた。真っ赤なガウンを羽織っている。 「何事ですの?」 「あなたは部屋にいてください」そう叫びながら天下一は玄関目指して走った。しかし留美もついてきた。  廊下の反対側に男が現れた。天下一は思わず身構えたが、それは青野だった。 「青野さん、男を見ませんでしたか?」 「いいえ」と青野は首を振った。  天下一は階段を見上げた。すると犯人はここを上がっていったことになる。天下一は迷わず駆け上がった。  彼は部屋のドアを片っ端から開けていった。しかしどこにも男が潜んでいる気配はなかった。最後に彼が調べたのは自分の部屋だったが、先程彼が窓から落ちた時のままだった。 「天下一さん、一体何があったのですか」窓の外から声がした。天下一が顔を上げると、離れの二階の窓から真知子が不安そうな顔で彼のほうを見ていた。矢一朗はベッドに横たわっているらしく、天下一の位置からその姿は見えない。 「犯人が消えた…」探偵は呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。  すぐに警察に連絡を、と天下一は提案したが、ここで問題が見つかった。犯人は電話線を切断しており、おまけに車のタイヤの空気も抜いていた。警察に知らせるには、あの樹海を徒歩で横切らねばならないのだった。昼間ならともかく、夜遅くにそんなことをするのは自殺行為といえた。 「仕方がない。朝になるまで待ちましょう」天下一はこう決断を下した。  だがこの直後、黄部家にとって奇跡的幸運が訪れた。道に迷ったハイカーが二人、一晩泊めてくれといってやってきたのだが、彼等の本職が警察官だったのだ。一人は若い山田巡査、そしてもう一人は、明晰《めいせき》な頭脳と的確な判断力を誇る、私こと大河原番三警部だった。 「何が明晰な頭脳と的確な判断力ですか。自分でいってて、よく恥ずかしくありませんね」天下一がうんざりした顔で私を出迎えた。 「君だって、登場する時にはいつも、頭脳明晰行動力抜群の名探偵天下一大五郎です、なんていってるじゃないか」 「それはこの作者の描写力のなさを補《おぎな》っているんです」 「俺もそうだぞ」 「違うでしょう。大河原さんのこの小説での役どころは、へっぽこな推理で事態を混乱させる脇役警部でしょうが」 「ふん、悪かったな」 「そんなことより、事件の内容はわかっていますね」 「わかっている。たった今までナレーターをやっていたんだ」  天下一は顔をしかめた。「小説なんだから地の文といってください」 「どっちでもいいじゃないか。それより、面白そうな事件だな」 「まあね」天下一は小鼻をびくつかせた。「腕が鳴る」 「状況から考えると今回の事件は、人間消失ものといっていいんじゃないか」 「人間消失ねえ」天下一は浮かない顔をした。 「なんだ、不服そうだな」 「不服というわけじゃないんですがね、人間消失もの、なんていう分類は一般的じゃありませんよね。その手の謎を扱った作品が、一体どれだけありますか」 「今度の事件には、もっとふさわしい分類方法があるというのかね」 「ありますね」 「そうなのか。じゃあ教えてくれ」 「いや、じつはそれが明かせないんです」 「なんだ、どういうことだ」 「通常の本格推理は、大体謎の種類によって分類できますよね。たとえば密室ものとか、アリバイ崩しものとか、ダイイングメッセージものとか。これらはすべて謎の種類を示しています。で、それを聞かされたからといって、読者の興味が半減するということはありません。読者が知りたいのは、そこにどんなトリックが使われているかってことですからね。むしろこの小説は密室ものだよとか、アリバイ崩しものだよと初めに断っておいてもらったほうが、本を選ぶ参考になって本格ファンなんかにはありがたいぐらいです」 「うん、同感だな」 「ところが本格推理小説の中には、謎の種類ではなく、そこに使用されているトリックの部分、つまり種明かしによって分類したほうが適切なものも少ながらず存在するんです。そういう作品については、未読の読者に対して、これは何々ものだよと明かしてしまうのはエチケット違反ということになります。種をばらしちゃうことになるわけですから」 「今度の事件がそれに当たるというわけか」 「そういうことです」 「ふうん、厄介な話だな」 「そんなわけですから、最後まで余計なことをしゃべらないようお願いしますよ」 「わかった、わかった」 「では小説の世界に戻りましょう」  事件のあらましは、青野が代表して私たちに話した。天下一と真知子夫人もそばにいる。矢一朗氏は動けないということで、そして赤井留美はショックが大きすぎたということで、それぞれ自分の部屋にいる。  話を聞いた私は、ふふんと鼻を鳴らし、応接間のソファでふんぞり返った。 「要するに犯人は窓から逃げたんだろう。素人探偵がモタモタしている間に」そういって天下一のほうを見た。 「いや、そんな暇はなかったと思いますが」青野がいう。 「そういう一般的な感覚でものをいってはいかんよ。相手はプロの殺し屋かもしれん」 「でも後から調べましたが、一階の窓は灰田さんの部屋以外、全部内側から鍵がかかっていたんです」 「ならば二階からということになるな。運動神経の発達した男なら、飛び降りることは不可能じゃない」 「いいえ、それもありえないはずです。天下一さんが二階を調べておられる間、私はずっと窓の外を見張っていたんです。窓から逃げた者なんていませんでした」 「一度も目を離さなかったと?」 「ええ、一度も」そう断言してから青野は、真知子夫人のほうを見た。「奥様も離れの窓から見ておられましたよね」 「え、ええ……」夫人は小さく頷《うなず》いた。 「犯人は窓からは逃げませんでしたか」と私は彼女に確認した。 「はあ……」 「ううむ」私は腕組みをした。そしてひとしきり唸《うな》った後、ぽんと手を叩いた。「犯人は屋敷内のどこかに隠れてたんだ。そうして皆が大騒ぎしている隈に逃げた」 「隠れるところなんてありませんよ。全部調べたんですから」青野が口を尖らせた。  私は目の前のテーブルを叩いた。「じゃあ、犯人はどこへ消えたというんですか」 「それがわからないから困ってるんじゃないですか」青野はいい返した。  私はまずいものを食ったような顔をした。 「もう一度現場を見てみよう」そういって山田巡査を連れて応接間を出た。  灰田は青いパジャマを着ており、ベッドに横たわっていた。抵抗の跡もないことから、眠っているところを撃《う》たれたのだろうと推測された。それならば素人でも胸に命中させられる。  天下一の話によると、この部屋の窓は開いていたようだから、犯人は窓から侵入したと考えることができる。そして犯人は犯行後も、窓から逃げるつもりだったのだろう。ところが天下一が二階から落ちてきたので、廊下に出るしかなくなった。問題は犯人がそれからどこへ行ったかだった。 「ううむ、どういうことだ」私は改めて唸り声をあげた。「今度ばかりはさすがの私にもさっぱりわからん」 「かなり困っておられるようですね」背後で声がした。天下一が入ってきた。 「なんだ君は。捜査の邪魔をしちゃいかん」 「邪魔する気はありませんよ。僕なりに謎を解いてみようと思っているだけです」 「ふん、素人探偵が生意気な。おい、山田、行くぞ」私は山田巡査に声をかけた。 「おや、どちらへ?」と天下一が訊く。 「ほかの関係者からも話を聞くんだ。まずは矢一朗氏からだ」 「じゃあ僕も御一緒しましょう。かまいませんよね」 「勝手にしたまえ。ただし邪魔するなよ」  我々は母屋を出て、離れに向かった。その途中で天下一が、小説の登場人物を離れた顔でいった。「図面が出てきませんね」 「図面?」 「ええ。こういう屋敷を舞台にした本格推理で、犯人が消えたという設定なら、ふつう屋敷の見取り図が出てくるじゃないですか。それが今回は出てこない」 「ああ、そういう意味か」私は頷いた。「たしかにそれが約束事みたいになってるな。しかしだ、そういう図面は本当に必要かねえ」 「といいますと?」 「ああいうものはアリバイ崩し小説における時刻表みたいなものでだな、読者に対して、推理する材料は出してあるよ、アンフェアではないよ、という立場を保つために載せてあるにすぎないんじゃないのかね。現実には、図面を見て読者が謎を推理するなんてことはないと思うな。絶対ないとはいえんが」 「なるほど、それもそうですね」天下一はにやりとした。「僕も、小説の最初に出てくる、『××邸見取り図』なんてものは、じっくり見たことがない」 「俺もだよ」我々はくすくす笑った。  離れに行くと、我々は黄部夫妻の寝室で矢一朗氏に会った。 「犯人はおそらく別荘荒らしでしょう。金目のものを狙って侵入したが、人がいたので驚いて撃った。まあそんなところじゃないですか」矢一朗氏はベッドに横たわったまま自分の推理を述べた。「捕まえられなかったのは残念ですが、今頃は樹海で道に迷っていることでしょう。のたれ死にすれば自業自得ですな」 「いや、しかし、どうやって逃げたのかが疑問でしてね」  私の質問に矢一朗氏は不愉快そうな顔をした。 「窓から逃げたんでしょう。それしか考えられない」 「でも青野さんも奥さんも、見ていないとおっしゃる」 「見落としたんでしょう。あの時家内は、母屋のほうを見張り続けていたわけではないし、青野という男はどこか抜けたところがありますから」矢一朗氏の口調は、どこかぶっきらぼうだった。  続いて我々は、赤井留美から話を聞くことにした。母屋に戻り、応接間で待っていると、その人物が現われた。  私はその人物を見るなり、思わずソファから落ちそうになった。天下一に目くばせすると、いったん廊下に出た。 「おいおい、あれが赤井留美か」 「そうです」 「そうですって、よくそんな真面目な顔をしていられるな。おい、俺はわかったぞ。今回のトリックはあれだな」 「そう、あれです」と天下一はいった。「でも、彼女を見ただけでトリックを見抜いたというのは、だめですよ」 「どうしてだ」 「だって、僕だってこの小説の冒頭で彼女と会った瞬間から、ああ今回はこういうトリックなのかとわかってたんですよ。でもそれじゃあ話が成り立たないから、気づかないふりをしてきたんです」 「そうだったのか。そいつは気の毒だったな。すると俺も気づかないふりをしていなきゃならんわけか」 「無論そうです」 「くー、きついなあ」  我々は部屋に戻り、赤井留美からの事情聴取を始めた。小説を成り立たせるため、何も気づかないふりをしたが、正直いって辛かった。横にいる山田巡査などは、笑いをかみ殺しているのが見え見えだった。  さて勘《かん》のいい読者なら、今回のトリックの正体はもう見抜けたはずである。私と天下一のやりとりの意味もわかっただろう。  今回のトリックというのは、じつは読者にとってはアンフェアなのである。というのは、そのトリックが成立するかどうか、読者には判断できないからだ。登場人物たちが騙《だま》されているからといって、誰もが騙されるとはかぎらないのである。  これでもまだ意味のわからない人も、次の謎解きを読めばわかる。そしてたぶん、怒りだすだろう。  母屋の応接間に全員が揃《そろ》っていた。いやじつは矢一朗氏の姿はないのだが、それでいいと天下一がいったのだった。彼はこの場で、今度の事件の謎解きをしてくれるということだった。事件発生から、まだ三、四時間しかたっていない。 「さて」と天下一は切り出した。「謎を解く前に、はっきりさせておきたいことがあります。それは、犯人はどこへ行ったのかということです」 「何をいってるんですか、それがわからないから困ってるんじゃないですか」青野が不満そうにいった。「犯人は消えてしまったんです。それはあなたもよく御存じでしょう」 「もちろんわかっています。でもドライアイスじゃあるまいし、人間が消えるなんてことはありえません。ではこのようにお訊きしましょう。犯人は屋敷の外に出たのか?」 「出なかったです」と、またしても青野が答える。「それは確実です」 「ええ、僕もそう思います」と天下一は同意した。「するとこう考えるのが一番|妥当《だとう》だということになります。犯人はまだ屋敷内にいる」 「えっ」 「まさか」  全員が緊張した面持ちで、自分の周囲を見回した。 「でも隠れるところはないはずです」と天下一は続けた。「そうなると残る可能性はただ一つ。犯人は我々の中にいるのです」 「そんな馬鹿な、そんなこと、あるはずがございません」真知子夫人が声を貰わせた。身体も小刻みに揺れている。 「しかしそれしか考えられないのです」天下一は冷静な声でいった。「さらに付け加えるなら、犯人は男です。それはこの僕が見たのですから間違いありません」 「わかった、犯人はこいつだな」私は青野の腕を掴《つか》んだ。青野は喚《わめ》いた。 「何をするんです。なぜ私が灰田さんを殺すんですか」 「しかし男といえば、おまえしかいない」 「私じゃない、私は何もやっていない」青野はもがいた。 「待ってください、大河原さん。青野さんは犯人じゃありません。男はもう一人いるじゃないですか」 「えっ」私は青野の腕を放し、ぽかんとした顔を作った。「もう一人というと、まさか」 「そのまさかです。犯人は黄部矢一朗氏なのです」  ひいいという声を上げたのは真知子夫人だ。「何をいうのです、あなたは。夫が犯人だなんて、頭がおかしくなったのですか。それともふざけているんですか」 「僕は真面目です。矢一朗氏は、遺産を独り占めするため、今度の計画をたてたのです」 「しかし矢一朗氏は動けないんじゃあ」と私はいった。 「あれは仮病ですよ」 「でも旦那《だんな》にはアリバイがあるじゃないですか」青野が反論した。「銃声が聞こえる直前、天下一さんは離れの二階にいる旦那様と挨拶《あいさつ》されたんでしょう?」 「そのとおりです。しかし言葉を交わしたわけではありません。矢一朗氏は黙って目礼されただけだったのです。なぜ声を出さなかったのか。それはあれが本物の矢一朗氏ではなかったからです」 「本物じゃないって? 誰かが変装していたというのかね」私は大げさに驚いて見せた。 「そうです。あれは真知子夫人の変装だったのです」そういって天下一は夫人を指差した。夫人は口元を覆《おお》い、ぶるぶると首を振った。 「違います。私、そんなこと……そんなことしていません」 「とぼけても無駄です。あなたの部屋を調べればわかることだ。男物の鬘《かつら》や変装道具が出てくるはずです」  天下一の追及にもはやごまかしきれぬと思ったか、黄部真知子はその場に崩れ、わあっと泣きだした。  これで読者の皆さんにもおわかりいただけたと思う。今回のトリックは変装、すなわち『一人二役もの』だったのである。天下一が初めに、何々ものと明かすわけにはいかないといった理由も理解してもらえただろう。  だがもちろん話はこれだけでは終わらない。  天下一はいった。「もちろん話はこれだけでは終わりません。では矢一朗氏は灰田さんを殺した後、いかにして屋敷から姿を消したのか? これこそが今回のメイントリックなのです」 「どうやったのかね」私は白々しく訊いた。 「簡単なことです。犯人は姿を消してなどいなかったのです。僕や青野さんが犯人を追っている時も、犯人は我々のそばにいました。……あなたです」  天下一が指差した相手を見て、私や山田巡査、そして青野は、ええっと驚きの声を上げた。それは赤井留美だった。いや正確にいうと赤井留美と名乗る人物だった。 「何をおっしゃるの。あたし、何も知りませんわ」赤井留美と名乗る人物は、身体をくねくねさせながら首を振った。 「ごまかしてもだめです。あなたの正体は黄部矢一朗さんだ」天下一は強い口調で断定した。「あなたの計画はこうだ。この屋敷に赤井留美さんが来たことを第三者である僕に印象づけた後、灰田さんを殺し、その後で留美さんの存在を消してしまう。そうすれば灰田さんを殺した留美さんが、屋敷を逃げてそのまま行方不明になったという状況を作れると考えたのです。誤算は銃声を聞いた時、僕が二階から飛び降りたことです。本当は僕が階段を使って降りている間に窓から逃げ出し、離れに戻るつもりだったのが計算が狂ってしまったのです。あなたは灰田さんの部屋を出ると、咄嗟《とっさ》に隣の部屋に飛びこみ、再び赤井留美に化けねばならなかった。なぜこんな早業ができたのかというと、あなたがかつて趣味で歌舞伎の女形をしていたことがあるからです。数秒で早変わりすることなど、何でもないことだったのです」  真知子を除く全員の視線が、赤井留美と名乗る人物に向けられていた。やがて彼女は、いや彼は、がっくりとその場に跪《ひざまず》いた。 「やはりだめだったか」男の声になっていた。「会社を建直すためには、どうしても父の遺産のすべてが必要だった。それで今度のことを計画したのだ」 「太物の赤井留美さんはどこです?」 「別の場所に監禁してある。頃合いを見て殺し、樹海の中に捨てるつもりだった」 「何ということを……」青野が呻いた。 「教えてくれ、天下一君」女装した黄部矢一朗がいった。「なぜ私の変装だと見抜けたのだ? 完璧だと思っていたのに」 「ほぼ完璧でしたよ。九十九パーセントまではね。しかし残る一パーセントを、僕は推理によって見つけだしたのです」  そして天下一は、一人二役トリックを見抜いた過程を、長々と解説し始めた。  彼を見ながら私は、本格推理の探偵も大変だなあと改めて思った。こんな場合でも、論理的に説明しなきゃならんのだから。  私なら、「なぜ変装を見抜けただと? そんなもの、見ればわかるわい」と怒鳴りたいところだ。  気味の悪い女装をした中年男を前に、大真面目に弁舌をふるう天下一を上目|遣《づか》いに見ながら、私はこっそりため息をついた。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第九章 殺すなら今――童謡殺人 [#改ページ]  その離れ小島へ行くには、本土の港から二時間も船に揺られなければならなかった。しかも老朽漁船をちょこっと改造した程度のオンボロ船だ。私をはじめ部下たちも、途中で何度も海に向かって大口を開け、呻《うめ》いた。  ふらふらになりながら凸凹島に着くと、数人の男たちに迎えられた。先頭にいるのは、ちょび髭を生やした太っちょだ。 「県警本部からきました、大河原番三です」と私は名乗った。「警部でして、えー、まー、責任者です」この点をはっきりさせておくと、相手の扱いが違う。 「これはこれは警部さん。遠いところへようこそいらっしゃいました」太っちょのちょび髭が強引に握手してきた。まるで観光客を迎えているような挨拶だ。「私は町長の鯨塚《くじらづか》です」 「よろしく。早速ですが、現場はどちらですか?」  この私の問いに、現在の状況を思い出したらしく、鯨塚は顔をしかめた。 「いわし山という小さな山の麓《ふもと》にある神社です。これから車で御案内します」 「お願いします」  我々は数台の車に分乗して現場に向かった。  いわし神社の境内では、人だかりができていた。我々が到着すると、モーゼが海を渡った時のように、その群れが真っ二つに割れた。その間を歩くのは、じつに気持ちのいいものである。死体は賽銭箱《さいせんばこ》の前で倒れていた。背広を着た、若い男だ。背後から首を絞められたということは、首に巻き付いている縄を見れば一目瞭然である。ここまでならただの絞殺死体だが、もう一つ奇妙な点があった。上向いた男の口に、何か押し込まれているのだ。近づいてよく見ると、それは饅頭《まんじゅう》のようだった。 「なんですか、これは」私は町長に訊いた。 「はあ、供えものの饅頭らしいですな」 「それはわかっていますが、どうしてこんなものが死体の口に入っているんです」  鯨塚町長はぷるぷると首を振った。「わかりません。私たちも首を捻ってるんです」  私は死体の第一発見者に会うことにした。毎朝この神社にお参りに来るという婆さんである。婆さんは死体を見つけた後、駐在所まで知らせに走ったが、その後ぎっくり腰を起こしたとかで、町医者に担ぎこまれていた。  七十年間生きてきて、あんなにびっくりしたことはない、と婆さんは死体発見時の模様を説明した。さらに死体について次のようにいった。 「目え剥《む》いて、歯をくいしばって、ほんとに恐ろしい顔して死んどった」 「歯をくいしばって?」その部分に引っ掛かった。「饅頭が詰め込まれとっただろう」  ところが老婆は、きょとんとした顔だ。「饅頭? なんだね、それは」  彼女によると、自分が見つけた時には、そんなふうにはなっていなかったという。私は、婆さんの知らせを聞いて現場に直行したという巡査から話を聞くことにした。するとその巡査の話では、彼が駆け付けた時には、死体の口に饅頭が詰め込まれていたらしい。 「すると饅頭を詰めたのは犯人ではないのか。いや、そんなことを無関係な人間がするわけないな。犯人が後から何か思いついて、やったということか。だがなんのためだ」  私は唸ったが、唸ってばかりいてもはじまらないので、被害者の身元を調べることにした。これはすでに判明していた。十年ほど前に島を出ていったきりになっていた、貝本巻夫という男だ。 「なぜ十年ぶりに貝本は戻ってきたんでしょうな」  この問いには鯨塚町長が答えてくれた。この島には、蛸田家と魚沢家という二つの大きな旧家があるが、近々双方の子供同士が結婚することになっているという。これはこの島にとっては久々の大イベントで、それでこれまで島を離れていた者たちも、続々と帰ってきているらしいのだ。 「じゃあ貝本も、どちらかの知り合いなのですか」 「そういう言い方をすれば、両方とも知り合いでしょうなあ。何しろこの島全体が、一つの家族みたいなものですから」町長はそのことが誇らしいようでもあった。  とにかく双方の家を当たってみようということになり、まずは蛸田家へ出向いた。行ってみると、門のところで何やらもめている。汚らしいチェックの背広を着た、ぼさぼさ頭の男が、お手伝いらしい中年女に何か頼んでいる。どうやら当主に会わせてくれといっているようだ。  私は男の肩を叩いた。「何をやっとるんだ、君はこんなところで」  男は振り返ると、顔を崩した。丸眼鏡の奥の目が細くなった。「あっ、大河原警部」 「まさか、また探偵ごっこを始めようというんじゃないだろうな」 「ごっこじゃありません。これは僕の職業です」胸を張ってから、小声で続けた。「といっても、今回は依頼人はいませんがね。たまたま昨日から観光に来ていたんです。で、純粋な知的好奇心から、この事件に取り組もうと思ったわけです」 「ふん、素人探偵にうろちょろされては、こっちが迷惑なんだがね」 「あのう、警部さん。この方は……」鯨塚町長が、胡散臭《うさんくさ》げに男を見ながら訊いた。 「自己紹介いたします。僕こそ、頭脳明晰、博学多才――」 「行動力抜群の名探偵、天下一大五郎だろ。もう耳にタコができたよ」 「いや最近ではさらにそれに加えて、個性的で魅力的という謳《うた》い文句もつけることにしたんです」 「なんだそりゃあ」 「だって仕方ないでしょう。この作者に、主人公を個性的で魅力的に描く筆力がないんですから」  やれやれ、と私はため息をついた。  蛸田家の当主八郎は、やけに威張った男だった。娘のノリコも、つんけんとすました、嫌味な感じのする女だ。母親は死んでいるらしい。  二人とも、貝本とは付き合いはないと断言した。殺人事件が今度の祝言《しゅうげん》に関わりがあるようにいわれると迷惑だと、八郎は不快感を露わにした。 「大きな旧家同士の結婚だそうですな」  ゴマをすっていってみたが、八郎の仏頂面は変わらない。 「みなさんそうおっしゃるがね、こちらとあちらでは伝統という点では比較にならんのだよ。何しろうちは、この島に人が住み着いた頃からの家だ。まあしかし、あちらさんがぜひにとおっしゃるから折れたわけだ。だからあっちの息子、鍋男というんだがね、あいつにちょっとでも気に食わんところがあれば、すぐにでもこの話は御破算にするよ」怪気炎をあげながら八郎は懐《ふところ》から煙草入れを取り出した。その時紙切れがひらひらと床に落ちた。  天下一がそれを拾いあげた。「なんですかこれは? 数字が書いてありますけど」 「あ、いや、なんでもない」八郎はそれを奪い返すと、びりびりと破って、近くのごみ箱に捨てた。  蛸田家を出て、次に魚沢家に向かう途中で、鯨塚が小声でいった。「蛸田家と魚沢家は、元来犬猿の仲だったのです。島の支配権をめぐって争っておったのですよ。それが最近になって、どちらも勢力が衰えてきますと、今度は手を握ろうとし始めました。権力を失うよりはましだと思ったのでしょうな」 「仲人はどなたが?」と天下一が訊いた。 「私です。大役ですよ」鯨塚は、ほっと吐息をついた。  魚沢家は蛸田家と逆で、旦那が死んでいるため、ひれ子という女主人が仕切っていた。息子の鍋男はぼんやりした男で、何もかも母親任せという感じだ。ひれ子のことを「ママ」と呼ぶのを何度か耳にした。 「今度の結婚は、蛸田さんのところを助けるようなものだと思っておりますの」そういってからひれ子は、ホホホホホと笑った。「何しろ経済的に、かなりお苦しいと伺っておりますものねえ。まあうちとしては、蛸田さんのところでなくてもと思うんですけど、まあせっかく先方さんが熱心におっしゃってるんですから、妥協というんですか、そういうのも仕方がないかと」  貝本については、名前も知らないし会ったこともない、というのが母子の答えだった。  ろくに収穫を掴めぬまま、初日の捜査が終わった。我々は島に一軒だけある宿に泊まった。無論そこには天下一も泊まっていた。そして翌日――。 「たいへんだ、たいへんだ、たいへんだ」大声が廊下を駆け巡り、続いて私の部屋の襖《ふすま》が開けられた。巡査が飛び込んできた。「警部、大変です。二人目の犠牲者です」 「なんだと」私は跳ね起きた。  現場は海岸のそばの岩陰だった。殺されていたのは海老原ウニ子という未亡人だ。死体の様子から、毒物を飲まされたことは明らかだった。だが何より、倒れていた状況が異様だった。海老原ウニ子の身体には、古い布団がかけられていたのだ。また頭の下には枕が敷かれていた。 「なんだこれは、どういうまじないだ」私は怒鳴った。 「これはもしかしたら」隣で天下一が呟いた。彼はよれよれの背広の内ポケットから、安っぽい冊子を取り出し、頁《ページ》をめくった。「やっぱりそうだ。思ったとおりだ」 「どうした?」 「これを見てください」天下一は、その頁を開いたまま、私の前に差し出した。  その冊子は『凸凹島の歴史』という本だった。開かれた頁には、『凸凹島子守唄』というものが載せられていた。こういうものだ。 『十人のわらべ、飯をくう。一人がのどを詰まらせて九人になった。  九人のわらべ、よふかしした。一人が寝すごして八人になった。  八人のわらべ、船で出た。一人が帰らんで七人になった。』  以後七人、六人と減っていき、最後の唄は次のようなものだった。 『一人のわらべ、一人暮らし。だども祝言あげて誰もいなくなった。』  私は冊子から顔を上げて天下一を見た。 「おい、これは君……」 「そうです」と探偵は頷《うなず》いた。目が輝いていた。「殺人はこの唄のとおりに行なわれています。今度の事件は、童謡殺人というやつなんですよ」  童謡殺人、という言葉が適当なのかどうかはわからない。しかし古今の推理小説の中には、いくつかこういうパターンのものがある。こういうパターンというのはつまり、童謡や数え唄、詩のとおりに殺人が重ねられていくという形式だ。見立て殺人、という表現を使う場合もある。 「日本で有名なのは、『悪魔の××唄』ですかね」天下一が、小説の主人公の顔を離れ、口を出してきた。 「その作品では、使用される唄も作者自身が作っているな。だからまあ、ストーリーに都合のいいように作ればよかったと思う。難しいのは、やっぱり、既存の唄を使用する場合だろう。同じ作者の『獄×島』がそうだ」 「世界的に有名な某女流作家の某作品では、マザーグースが使われていますね。島に集められた十人が、その唄のとおりに殺されていき、最後には誰もいなくなる……」 「むっ、そういえばそのマザーグースの唄と、今回の子守唄は酷似しているな」 「気がつきましたか」天下一はニヤッとした。「どうやら作者がパクったらしいです」 「なんてやつだ」私はげんなりした顔を作り、ゆっくりと首を横に振った。 「それにしても今回の事件が童謡殺人だったとは驚きました」 「うむ、この仕掛けは後の説明が難しいんだよなあ」 「何のために唄の歌詞どおりに殺したかって点ですよね。作者としては、話が盛り上がりそうだと思って、そういう小細工を考えたんでしょうが、論理的説明がつかないんじゃあ話にならない」 「過去の作品だと、どういう理由があるのかな」 「殺人動機が複数の相手に対する復讐の場合、これから殺そうとする相手に恐怖を与える手段として使うことがありますね。その唄は犯人と被害者たちにとって、重要な意味を持っていたりするわけです。無関係の人間にはわからないが、被害者たちには、なぜ自分たちが狙われるのかがわかるという仕掛けです。また、容疑を別の人間になすりつけるため、という使い方もあります。その唄に関わりの深かった人間を、犯人に仕立てようとするわけです」 「なるほど。そういう理由なら、一応論理的といえんこともないわけだ」私は腕組みをして頷いてから、顎《あご》の不精髭をこすった。「しかし、やっぱり苦しいな」 「苦しいです」と天下一も同意した。「歌詞どおりに殺したり、死体を処理したりするのは大変ですからね。へタすると、そこから足がついてしまう。それだけのリスクを負っているわりには、犯人にとってのメリットが少なすぎます。はっきりいって余計な苦労だと思いますね」 「まあそれをいっては身も蓋《ふた》もないんだろうが」私は頭を掻《か》いた。「で、今回のはどうなんだ。読者を納得させるだけの理由があるのかい?」 「さあねえ」天下一は、その点についてはあまり期待していない様子だ。「とにかくはっきりしていることは、これからまだまだ殺人が起きるということです。何しろ今度の子守唄は、十番まであるんですから」 「あと八人は死ぬということか」  童謡殺人の場合、その唄が何番まであるかによって、被害者の数が推定できてしまうという欠点がある。 「やれやれ、気の長い話だな」我々は顔を見合わせて、頷きあった。  私と天下一が小説世界を離れて論じ合ったとおり、その後も次々に殺人が起こった。まず大磯砂彦というカメラマンの刺殺死体が、沖に浮いていた小舟から発見された。これは前述の三番の唄と符合する。さらに浜岡栗子という主婦が、斧で頭を割られて殺された。四番目の唄は次のようなものだった。 『七人のわらべ、まきをわる。一人が頭をわって六人になった。』  続いて港川水一郎という男が毒を注射されて死に、その次には高波うず子という女が、六法全書を抱いたまま崖から突き落とされた。五、六番目の唄はそれぞれ次のとおりだ。 『六人のわらべ、蜂の巣つつく。一人が刺されて五人になった。  五人のわらべ、法律の勉強。一人がにげて四人になった。』  あとはもう一々書き並べる必要もないだろう。こんな調子でさらに、七人目、八人目の被害者が出たわけだ。この間警察側の代表者の私は何をやっているかというと、相変わらず的外れな捜査を繰り返しているのである。真犯人を捕らえるのは、この小説における私の役目ではないから、これはこれで仕方ないのだ。  苦しいのはやはり天下一の立場だろう。名探偵というキャッチフレーズなのに、八人も被害者を出しておいて、まだ事件を解決できないでいるのだ。いや正確にいうと、かれはまだ解決してはいけないのだ。こんなところで犯人を捕まえてしまっては、作者が十番まである唄を用意した意味がなくなってしまう。  こういうことは童謡殺人にかぎらず、連続殺人を扱った本格推理ではよくあることではある。あまり早く解決してしまっては、話が盛り上がらないからだ。  だがそれにしても、唄が十番まであるというのは多過ぎるようだ。探偵役が後手に回って、二人三人と殺される程度ならまだ許されるが、七人八人となると、間がもたなくなる。天下一は事件が起きるたびに、「ああしまった、また犯人に先を越された」なんていっているが、その台詞《せりふ》もそろそろ間抜けなものにしか聞こえなくなってきているのである。  しかしそんな苦労も終わりのようだ。天下一はいよいよ動きだした。どう動いているのかは、我々警察は知らない。彼がもっと早く自分の推理を我々に話してくれれば、効率的に捜査ができて事件解決も早いと思われるのだが、そういうことはしないのが、この手の小説に出てくる探偵役である。  さて彼がどこかへ消えている間に、ついに九人目の被害者が出た。寝ているところにガソリンをかけられ、火をつけられて焼死したのだ。九番目の唄については、わざわざ紹介する必要もないだろう。読者のほうで適当に想像してください。 「ううむこれは一体どういうことだ。今度の事件ばかりは、さすがのわしでも手に負えんぞ」黒焦げ死体が運ばれていくのを見送った後で、私はいつもの台詞をいった。 「ああ、ああ、ああ、なんということだ。よりによって私が町長をしている時に、こんな惨劇が起きるとは。ついてない、ついてない」鯨塚が地面に膝をつき、頭を掻き毟《むし》った。  周りにいた野次馬たちも、口々にしゃべりだした。 「それにしても九人も殺されるとはなあ」 「たて続けだものねえ」 「しかも揃いも揃って、おかしな殺され方じゃからのう」 「ほんと、一人一人違う殺し方よね。規則性が全然ないし」  そこまで聞いたところで、私は野次馬たちのほうを見た。 「なんだ、あんたらは気づいとらんのか?」 「何をです」と若い男が代表するように訊いた。 「今回の殺人は、すべてこの島に伝わる子守唄どおりに行われているんだ。そんなこと、とっくに噂になってると思っていたが」  私の一言で、群衆がざわついた。 「子守唄? そういえばそんなものがあったな」 「子守唄か。なるほど。そうじゃ、そのとおりじゃ」 「そうだったのかあ」 「九番目の唄までが、すでに使われているわけね」 「残りは一つか」  その後の彼らの行動は奇妙だった。誰も彼もあまりしゃべらず、こそこそと散っていったのだ。  天下一が戻ってきたのは、その夜のことだった。 「今頃までどこに行っていたんだ、君は」私は苛々した気持ちを声で表現した。  天下一は意味あり気に、にやにやした。 「いろいろと調べることがありましてね。東京まで」 「東京? 調べるって何を?」 「まあそれはこれからお話ししますよ」そういってから天下一はきょろきょろした。「ええと、魚沢家と蛸田家の皆さんはどちらに?」 「明日の祝言の最終打ち合せとかで、蛸田家に集まっているらしい」 「それはちょうどいい。大河原さん、今から僕らも行きましょう」いうや否や天下一はすたすたと歩きだした。私もあわてて後を追った。  蛸田家に行くとお手伝いが出てきて、今取り込み中だから、捜査に関する質問なら後にしてほしいと横柄な口調でいった。 「それなら皆さんに、こうお伝えください。犯人がわかったので、お知らせしたいのだと」  天下一の言葉に中年のお手伝いは顔色を変えた。同時に私も驚いて探偵の横顔を見た。  しばらくお待ちくださいといって引っ込む姿を見送ってから、私は天下一にいった。 「おい、本当なのかね。犯人がわかったというのは」 「ええ」と天下一は自信たっぷりに頷く。  私は周囲を見回してから、彼の耳元に口を寄せた。「犯人が子守唄を使った理由についても大丈夫なんだな」 「もちろんです」 「読者も納得させられるな?」これはさらに小声でいった。 「それは」天下一は顔をしかめた。「なんともいえませんが」  おいおい、と私がいいかけた時、お手伝いが戻ってきた。どうぞ中へ、という。さっきとはずいぶん態度が違っていた。  我々は応接間へ案内された。蛸田父娘と魚沢母子、それから仲人の鯨塚夫妻が、高級そうなソファに座ったまま、我々を迎えた。 「犯人がわかったそうだが」蛸田八郎が重々しい声で訊いた。 「わかりました」天下一が一歩前に出た。深呼吸を一つしてから、徐《おもむろ》に話し始めた。「今度の事件の謎はじつに難解でした。数々の奇怪な事件に遭遇してきた僕でも、これほど複雑に入り乱れた糸をほどくのは、簡単なことではありませんでした。粘り強い調査と、わずかな矛盾さえも見逃さない観察力、さらに洞察力、直感力、そして、ある程度の運がなければ不可能だったでしょう。とにかく謎を解くには様々な要素をバランスよく融合させることが必要で――」  名探偵の講釈はまだまだ延々と続くのだが、読者も辛気臭いだろうから省略する。聞いている我々だって、欠伸《あくび》をこらえるのが大変なのだ。 「ではまず第一の事件から御説明しましょう。あの夜被害者の貝本さんは、ある人物に会うために神社に行きました。取引をするためです」 「取引? なんだね、それは」と私が訊く。  天下一は蛸田八郎を見た。それから視線を、その隣へと移した。 「娘のノリコさんの秘密を守りたければ金を出せ――言い方はわかりませんが、そういう意味のことを貝本さんはいったはずです」 「馬鹿な」蛸田八郎が目を剥いた。「それではまるで私が、貝本と会っていたかのようじゃないか」 「そのとおりです。あなたが貝本さんと会っていたのです。そして殺した」 「くだらん。何を証拠にそんなことを」蛸田は、タコのように顔を赤くした。 「あなたが煙草入れから落とした、あの小さな紙切れが証拠です。僕はあれを後で拾って、繋ぎあわせてみたのです。あの紙には数字が書き込まれていました。電話番号でしょうか? いいえ違いました。調べた結果、それは銀行の口座番号だったのです。しかも名義は貝本さんになっていました。なぜあなたがそんなものを持っていたのか? 答えは明白です。あなたは彼から、この口座に金を振込めと命令されたのです。ノリコさんの秘密と引き替えにね」  蛸田は何かいおうとしたが、言葉が出ないらしい。顔はますます赤くなっていく。対照的にノリコは青ざめている。 「あの、ノリコさんの秘密というのは」鯨塚が、おそるおそるといった感じで訊いた。 「それは、ノリコさんがかつて東京に行った時、貝本さんと関係したということです。いやそれだけじゃなく、彼の子供を堕胎したこともあるということです。その時の産婦人科も突き止めました」  まっ、と口を開けたのは魚沢ひれ子だ。 「でたらめだ」呻くように蛸田八郎がいった。ひどいわ、ひどいわ、といってノリコは泣きだした。しかしよく見ると涙は出ていない。 「しかし第二の事件では、蛸田氏にはアリバイがあるぞ」私は手帳を見ながらいった。 「もちろんです」天下一はいった。「なぜなら二番目の事件の犯人は、蛸田さんではないからです」 「なんだと」 「この第二の犯人は第一の事件を知ると同時に、一つの計画を思いつきました。これに便乗して、自分も邪魔者を殺そうと考えたのです。しかし犯人が同一だと捜査陣に思わせるためには、二つの事件に共通点があったほうがいい。そこで利用したのが子守唄です。第二の犯人は、貝本さんの死体が発見された直後、まだ野次馬が集まってこないうちに細工を施しました。口に饅頭を詰め込むということです」 「なるほど。それで発見時には饅頭はなかったと目撃者はいってたんだな」私は手を叩き、大きく頷いた。それから天下一を見た。「で、その第二の犯人というのは?」 「この方です」探偵が指差したのは、魚沢ひれ子だった。  ひれ子はしばらく呆然とした顔をした後、大きく目を見開き、オーホホホホと甲高い声で笑いだした。 「どうかしてるんじゃありません? どうしてわたくしがそんなことを。あーおかしい」 「とぼけても無駄です。前々からあなたは海老原さんを殺そうとしていた。なぜなら彼女が鍋男君の秘密を知っていたからです」 「なに、またか」私は思わずのけぞった。「今度はどんな秘密だ」 「ちょっと特殊な趣味があることです」 「趣味?」 「口に出しにくいのですが、思い切っていいましょう」天下一は、すうーっと息を吸い込むと、それを一気に吐き出しながらいった。 「鍋男さんは、小さな女の子に強い関心を持っているのです。いや関心を持つだけならいいが、あのう、そのう、つまりイタズラをしてしまうのです」 「幼女趣味か」私は大声を出していた。  それまで母親の横でおとなしく座っていた鍋男が、泣きだしそうな顔になり、「ママア……」と情けない声を出した。ひれ子はそんな息子の手を握り、天下一を睨みつけた。目が血走っていた。 「そんな、そんな、そんな証拠……どこに、どこに、どこにあるっていうのっ」 「海老原さんの娘さんが証言してくれましたよ。今は東京の親戚に預けられています。もう中学一年でしてね、いやな過去を思い出すのは辛そうでしたけど話してくれました。僕が東京に行ったのは、その確認をとるためでもあったのです。あなたはこのことを海老原さんにしゃべられやしないかと、ずっと心配だった。そこでこの機会を利用して殺したのです。子守唄にもとづいて、布団や枕まで用意してね」  反論の言葉が出ないのか、ひれ子は黙っている。すると蛸田八郎が呟いた。「あれはあんたがやったことなのか……」 「じゃあ三番目の事件は?」と私は訊いた。 「あれは蛸田さんです」  と天下一は答えた。「二番目の事件が起き、子守唄との符合に気づいた蛸田さんは、内心は北叟笑《ほくそえ》んだことだろうと思います。誰か知らないが事件をうまい具合に混乱させてくれた、というふうにね。そこで蛸田さんは、じゃあこの際とばかりに、もう一人邪魔者を消しておくことにしました。それが大磯さんです。大磯さんも以前ノリコさんと付き合ったことがあり、彼女のヌード写真をネタに蛸田さんを強請《ゆす》っていたのです」 「なんと……じゃ、四番目の事件は……」 「魚沢さんの犯行です。事件がますます混乱を深めたことに便乗して、ついでにもう一人殺すことにしたわけです。浜岡さんの娘さんも鍋男さんにイタズラされたことがあり、ひれ子さんは毎月多額の口止め料を支払っていましたから」 「五番目は……」 「蛸田さんの犯行」天下一は、そろそろ面倒くさくなってきたのか、ややぶっきらぼうにいった。「港川さんもまたノリコさんと恋人だったことがあり、ノリコさん直筆の婚姻届を持っていました」 「じゃ、六番目は魚沢ひれ子さんの番だな」 「御明察。高波さんは海老原さんたちと親しく、鍋男さんの趣味について薄々知っていたのです」  ここまでくれば、もう後はおわかりだろう。この調子で蛸田八郎と魚沢ひれ子が、交互に殺人を繰り返していたのである。こうなるともう、どちらが便乗しているのかも、曖昧になる。  九番目の犯行が蛸田によるものであることを説明したところで、天下一の謎解きは一応終わった。  私は蛸田父娘と魚沢母子を見比べながらいった。「どうだ、何かいいたいことがあるならいったらどうかね。反論はないのか?」  最初に顔を上げたのは蛸田八郎だった。天下一の推理にケチをつけるのかと思ったら、そうではなかった。彼は向かいに座っている魚沢母子を睨んでいったのだ。「くそお、そうだったのか。そんな変態息子を、うちの娘に押しつけようとしたのか」  これを聞いて、魚沢ひれ子が黙っているはずがなかった。 「何だって? あんたのところこそ、とんだあばずれじゃないか」 「なんだと、この皺くちゃばばあ」 「何さ、太鼓腹の海坊主が」  掴み合いの喧嘩が始まった。  応援の警官に来てもらい、双方を取り押さえた。手錠をかけた後も、二人はさかりのついた猫みたいにフーフーいっていた。  鯨塚夫妻と共に、私と天下一は蛸田家を後にした。 「いやあしかし見事な推理でしたなあ。子守唄殺人の裏に、あんな真相があったとは」鯨塚町長は、しきりに感心していた。 「便乗の可能性に気づいたのがポイントでした。あれで、アリバイが無意味になりましたからね」天下一も上機嫌で受け答えする。 「はあはあ、なるほどねえ。それにしても、便乗に加わったのが一人でよかった」鯨塚がいった。「子守唄殺人に、ほかの人間が便乗したっておかしくないですからねえ」 「ああ、そうですね。全くそのとおりだ」と天下一もいった。  私は足を止めた。 「どうしたんですか、大河原さん?」天下一が振り返った。 「たしかまだ十番目の唄が残ってたな」 「ええ。『一人のわらべ、一人暮らし。だども祝言あげて誰もいなくなった』というものでした。それが何か?」 「ううむ……」  いやな予感がした。  その予感は的中した。翌日、この島のあっちこっちで殺人事件が起きた。それぞれの事件には、殆ど共通点が見当たらなかったが、一つだけ一致していることがあった。  それは、どの死体にも結婚衣装が着せられていたということだった。三三九度の盃を手に持たしてあるものもあった。  私はこの小説のタイトルの意味を改めて知り、ため息をついたのだった。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第十章 アンフェアの見本――ミステリのルール [#改ページ] 「警部、殺しです」私が机に座って書類を書いていると、部下が勢いよくやってきた。  私は上着に手を伸ばした。「場所はどこだ」 「××町の大黒という家です。主人の一朗が殺されました」 「大黒一朗といえば名士じゃないか。よし、すぐに行こう」上着の袖に腕を通しながら立ち上がった。  大黒一朗は、日本では中の下あたりにランクされる大黒製薬の社長である。会社は一時期経営が悪化したが、最近また持ち直したということを私は知っていた。  大黒邸はその名字から受けるイメージとは正反対に、真っ白のタイルを壁に貼り付けた建物だった。二階にあるアーチ形のバルコニーからは、ディズニー映画のお姫さまか何かが登場してきそうだ。だが玄関脇にゴミ袋が出されたままになっていることから、何か異状のあったことが感じられる。  我々を出迎えたのは、五十歳前後と思える痩《や》せた女だった。家政婦で紺野ミドリという名前だと自分でいった。ひどく怯《おび》えているのが、声の震えでわかった。 「被害者は?」 「こちらです」  家政婦の後をついていくと、だだっ広い居間に出た。巨大なソファのすぐ横に、男が一人倒れている。そばには中年の女と若い男、それから医者らしき白衣の男がいた。中年女はソファに顔をうずめてすすり泣きをしており、若い男と医者は沈痛な表情を浮かべて座っている。  私は自己紹介をし、その後で彼等の名前を確認した。泣いている女は被害者の妻の大黒ノブコ。若い男は息子の次郎だ。医者の名前は、まあどうでもいいだろう。  死体は水色のガウンを着ていた。もがき苦しんだのか、胸をはだけでいる。 「毒殺ですな。まず間違いありません」医者が死体を見下ろして断言した。 「それは?」といって、私はテーブルの上を指差した。そこには平たい箱が広げられており、中にはチョコレートが並んでいた。 「今朝、届いたものらしいです」と息子の次郎が答えた。  私は医者に訊《き》いた。「このチョコレートに毒が?」 「たぶんそうでしょうな。食べかけのチョコレートが、ほらここに」医者が床を指差した。半分ほどかじったチョコレートが、薄紫色の絨緞《じゅうたん》の上に落ちていた。  私は頷《うなず》き、鑑識を呼んだ。  現場検証が行われている間に、私は一朗の書斎で関係者から話を聞くことにした。まずは次郎からである。 「父が誰かに命を狙われるなんて、とても考えられません。恨まれるようなことは、何もしてこなかったと思いますから」次郎は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、重々しい口調で語った。  そういう人間にかぎって平気で悪事を働いているものなんだという言葉を、私は飲み込んだ。  次に家政婦だ。チョコレートが届いた時の状況などを尋ねてみた。 「とにかく旦那様はチョコレートに目がないのでございます。それで、差出人の名前には覚えがないとおっしゃっていながら、むしゃむしゃとお食べになられたのです。私もまさか毒が入っているなどとは夢にも思いませんから、紅茶でもいれてさしあげようと厨房《ちゅうぼう》に立った時、突然|呻《うめ》き声が聞こえて……」そこまで述べたところで、あとはすすり泣きに変わった。  妻のノブコはまだ事情聴取できる状態ではなく、自分の部屋で休んでいるということだった。この家にはほかに、次郎の妻タカコと、殺された一朗の弟和夫、それから運転手の桜田という男が住んでいるらしい。その連中が帰ってくるまで、私も現場をもう少し見ておくことにした。 「おいこら、勝手に入っちゃいかん。なんだ君は」玄関のほうから声がした。怒鳴っているのは私の部下らしい。行ってみると、もじゃもじゃ頭によれよれのスーツを着た男が、部下に襟《えり》首を掴《つか》まれているところだった。 「なんだ、天下一君じゃないか」 「あっ、警部」こちらを見て、天下一は懐かしそうな顔をした。「この事件を担当しておられるんですか」 「お知り合いですか」部下が私に訊いた。 「知り合いというほどのことはないがね。警察関係者なら、彼を知っている者は多いよ」 「特によくお世話になっているのは、大河原警部です」天下一が胸を張った。余計なことをいう男だ。  私は咳払いをした。「ええと、それで君はなぜここに現われたのかね」 「私がお呼びしたんですわ」まず声がして、それから若い女が入ってきた。化粧は派手で、やたらにアクセサリーをつけている。 「あなたは?」 「大黒タカコです」 「ああ、次郎氏の奥さんですか」私は額いた。「あなたがなぜ天下一君を?」 「なぜって、そりゃあ事件が起きたからじゃないですか。私、天下一さんのことは友人から聞いて、よく存じておりましたの。頭脳明晰、博学多才、行動力抜群の名探偵さんなんですってね」 「いや、それほどでも」と天下一は照れる。 「だから今回の事件もぜひ天下一さんに解決していただこうと思って、それでここへお連れしたというわけですの。警察は頼りにならないから」そういってからタカコは、話している相手が警察官だということを失念していたという顔で、「あら、失礼」と口の前に手をやった。  私はもう一度咳払いをして探偵を見た。 「そういうことなら仕方ないがね。くれぐれも我々の邪魔だけはせんでくれよ」 「ええ、それはよくわかっています」天下一はぺこりと頭を下げた。  邪魔なやつが来たものだと、ここで私は苦々しく思ったりするわけである。もちろんこの小説は天下一探偵が主人公なのだから、彼が登場してくることは最初から決まっているのだが、私の立場としてはこういう態度をとらねばならない。  探偵を交えて、改めて現場を調べることになった。まず注目されたのは、いうまでもなくチョコレートだ。 「これは有名な菓子店のものですね。どこにでもあるという店じゃありません。ここ二、三日のことなら、店員が客を覚えているかもしれませんよ」天下一が包装紙を見ていう。 「もちろんそんなことはわかっておるよ。だからその、あー、部下に店を当たらせるつもりだ」私は平然としたふうを装っていった。  次に天下一は、乱暴に破りとられた小包み用の紙のほうを手に取った。 「緑色のボールペンで宛名書きがされていますね。手紙を緑のインクで書くというのは別れの印だとよくいわれますが、それと関係があるのかな。ええと、差出人の名前は、習志野権兵衛となっていますね」 「聞いたことのない名前です」と、いつの間にかそばに来ていた次郎がいった。 「そりゃそうでしょう」と天下一はいった。 「これは名無しのゴンベエをもじったものですよ」 「あっそうか」次郎は悔しそうな顔をした。 「ちょっと見せたまえ」私は天下一の手から紙を奪いとった。「ふうん、習志野権兵衛か。一応住所が書いてあるが、デタラメだろうな。おや?」 「どうかしましたか」と部下が訊いた。  私は切手の消印を指差していった。「これを見ろ。この小包を受け付けた郵便局は、この近所だぞ」  ええっ、とばかりにその場にいた全員が、いや正確にいうと天下一を除く全員が、私の手元を覗き込んだ。 「ほんとうだ」 「どういうことだろう」  刑事たちも口々にいう。 「ううむ」私は唸《うな》り声を出した後、大黒家の人間たちにいった。「すみませんが、皆さんは別室で待っていていただけませんか」 「あら、どうしてですの?」大黒タカコが片方の眉を上げた。 「ちょっと捜査についての打ち合せがあるんですよ。ほんの少しの間で結構です」 「へえ、そうなんですか」  タカコをはじめ、大黒家の家族たちがいなくなると、私は部下たちに指示した。 「緑色のボールペンを探せ。この屋敷の中にあるかもしれない」 「えっ、ということはつまり……」部下の一人が険しい顔をした。 「そうだ。犯人はこの家の人間である可能性が高い。だからこそ、あんなにすぐ近くの郵便局を利用したのだ」 「なーるほど」部下たちは納得したようすで頷く。 「いやー、果たしてそうでしょうか」少し離れたところで我々の話を聞いていた天下一が首を捻《ひね》った。「それはいくらなんでも安直なんじゃないでしょうか。もし本当にこの家の人間が犯人なら、そんな見え見えのことはしないと思うな」 「黙っていたまえ。素人探偵に何がわかる。これは私の長年のカンによる推理だ」やたらに大きな声で私はいった。安直な推理であることは私にもわかっているが、このように断言してしまわないと、今後の展開上都合が悪いわけである。  私に怒鳴られ、天下一は黙りこんだ。私は再度部下たちに、緑色のボールペンを探すよう命令した。部下たちは素早く、四方に散った。  約三十分後、二人の刑事が緊張した面持ちで戻ってきた。一人が丸めたハンカチを持っていた。 「一朗氏の書斎のゴミ箱に落ちていました」私の前で刑事はハンカチを広げた。  中には緑色のインクのボールペンが入っていた。 「よし決まった」私は、ぽんと手を叩いた。 「全員をここに集めろ」  ちょうど殺された大黒一朗の弟の和夫と運転手の桜田が、事件のことを聞いたとかで帰ってきたところだった。彼等に、大黒ノブコ、次郎とタカコ夫妻、それから家政婦の紺野ミドリを加えた六人が居間に集められた。  ボールペンが落ちていたことを発表すると、全員が顔色を変えた。 「そんな馬鹿な。身内が犯人だなんて」 「何かの間違いだ」 「頭がおかしいんじゃないの」 「どうかしていますよ」  口々に文句をいいだす始末だ。私は、「静かに」と威厳を込めた声でいった。 「皆さんの言い分はよくわかりました。しかしこれは客観的事実なのです。そこでたった今から、皆さんはこの屋敷の外には一歩も出ないでいただきたい。その間に我々は、全力を上げて犯人の正体を者いてみせます。どうか御協力をお願いいたします」  大黒家の人間たちは不満そうだったが、私は強引にこの要求を通した。そして部下たちには、大黒家の人間関係を詳しく調べるよう指示を出した。 「さて……と」誰もいなくなった頃を見計らって、私は天下一に話しかけた。「ここまでで小説の前半部が終わったわけだが、今回のトリックは一体どういうものなのかな。ここまで読んできたかぎりでは、トリックらしさものは見当たらないが」すると天下一は汚らしい頭をぽりぽりと掻《か》き、うんざりした顔をした。 「トリックはわかっていますよ。いや、読者だって、もう気づいているかもしれない」 「はう、そうなのか。じゃあ説明してもらいたいな」 「残念ながら、それは今はいえません。前にもお話ししたように、ミステリのトリックには、密室とか偽《にせ》アリバイとか、その種類を予《あらかじ》め教えられても支障がないものと、教えられると興趣が激減してしまうものとがあるのです。今回のトリックは、後者に属するものといえます」 「そうか、それなら仕方ないな。後の楽しみにとっておくとしよう」  私の言葉を聞き、天下一はなぜかため息をついた。「楽しみ……ねえ」 「なんだ不景気な顔をして。何か文句があるのかね」 「率直にいうと、大いに不満ですね。僕はこの天下一シリーズには、このトリックは出てこないと思っていたのですが」 「どういうところが不満なんだ」 「読者の手前、詳しいことはいえませんがね、まずこのトリックにはオリジナリティが感じられない。密室にしろ、偽アリバイにしろ、たとえ見せる手品の種類は同じでも、その種には作者の独創性が生かされています。たとえばある人は、物理的な仕掛けを使って密室トリックを完成させるだろうし、またある人は錯覚を利用して密室を作りだす。一口に密室といっても、多種多様なものが考え出されているんです。ところが今回のトリックは、一部の例外を除くと、たった一種類しかない。つまりこのトリックを使った記念すべき第一作以降の作品は、すべて盗作だという言い方だってできるのです」天下一は興奮のあまり、そばに置いてあった大理石のテーブルを蹴飛ばし、爪先のあまりの痛さに呻いた。それから顔をしかめて立ち上がった。「まあすべて盗作だというのは極論ですがね。いろいろな作家が、様々なバリエーションを考えて、傑作と呼ばれるものを生み出しているのは事実です。でもこのトリックによる意外性だけを狙った作品というのは、僕としては認めたくないですね」 「この小説が、そういう類《たぐい》のものだといいたいのかね」 「そのとおりです。いや、もっと悪質かもしれない」 「どうしてだ」 「アンフェアだからです。アンフェアの見本といってもいい」 「ずいぶんな言い方だな」私は耳の穴に小指を入れて、ぐりぐりした。 「ここで僕のほうから一つだけお願いがあるんですがね」 「何かね」 「もしかしたら、まだ犯人が誰かわかっていない読者がいるかもしれない。そういう皆さんに、ヒントを差し上げたいんです。このままだと良心がいたみます」 「君が気にすることはないと思うがね。まあいいだろう、好きにしたまえ」 「それでは――」天下一はくるりと身体を反転させ、読者のほうを向いた。「この小説のシリーズキャラクターである僕や大河原警部が犯人ということだけは、決してありません。しかしそれ以外の可能性はすべて疑ってみてください。先入観を捨てるのです」そしてまた身体の位置を元に戻した。 「それだけでいいのかね」と私は訊いた。 「もっと詳しく話したいところですがね、これ以上はさすがにネタばらしになるのでいえない。ああでも、こんなインチキの片棒を担ぐなんて……」天下一は頭を抱え、うずくまった。 「ごちゃごちゃいっとらんで、小説世界に戻ろう」私は彼の首根っこを掴んで、無理やり立たせた。  この夜は部下たちに屋敷の周囲を見張らせ、私も大黒家に泊まることにした。毛布を借りて、交替で仮眠をとる刑事たちと共に、居間でゴロ寝である。天下一はどう画策したか、一人だけ部屋を与えられている。  私も時折起きて、邸内を歩き回ったりした。こんなことで手がかりが掴めるはずのないことはよくわかっているが、こういう無意味な捜査をするのが、この小説における私の役どころである。  何度目かの見回りの後で居間に戻ると、部下の刑事が天下一と話をしていた。 「なんだね、君は。こんな時間に」 「どうも胸騒ぎがして眠れないので、起きてきたんです。警部は、毒入りチョコレートのつまみ食いでもしてきたんですか」 「何をいうか。見回りをしとったんだ」 「天下一さんは、犯人はこの屋敷の住人ではないとおっしゃるんですが」刑事が遠慮がちにいった。 「ほう」と私は素人探偵を見た。「なぜかね」 「動機がありません」と天下一はいった。 「大里二朗氏が死んでも、誰も得をしないのです」 「そんなことはないだろう。多額の遺産が転がりこんでくる人間がいるんじゃないのか」 「以前の大黒氏ならそうだったでしょうね。でも一時会社経営が悪化したせいで、今では個人資産は大したことはありません。借金だってあるし、相続税を払ったら、殆どチャラじゃないでしょうか」 「保険金はどうだ。生命保険には入ってたんだろ」私は、そばの刑事に訊いた。 「入ってました。受取人は夫人のノブコです」刑事は手帳を見ていった。 「じゃあ、あの女が犯人だ」私は即座にいった。「それに決まった」  だが天下一は首を振った。 「ただし金額は一千万円だそうですよ。庶民にとっては大金ですが、安定した生活と引き換えにするだけの価値があるかどうか」  ううむと私は唸った。そして刑事に訊く。 「怨恨のセンはどうだ。あるいは情痴とか」  刑事は頭を掻いた。 「それがですねえ、今まで調べたかぎりでは、そういう話は出てこないのです。平穏無事だったというか」 「そんなはずはない。大体こんな金持ちの家で、怨恨だとか愛憎がないなんてことがあるわけがない。もっとよく調べろ」自分でも、ずいぶん強引なことをいっているなあと思いながら、私は部下を叱りつけた。部下は、「はあ、わかりました」と冴《さ》えない返事をしている。  その時横でコトリと音がした。見ると入り口のところにガウンを羽織った大黒タカコが立っていた。 「若奥さんでしたか。どうされました、こんな夜中に」と私は訊いた。 「主人が……主人の姿が見えないんですけど、御存じじゃありません?」 「次郎さんが? いや私は見ていないが」部下のほうを見た。自分も知りません、と彼は答えた。 「いつからいらっしゃらないのですか」と天下一が訊いた。 「それが、ついさっき私が目を覚ましたら、隣のベッドにいないんです。お手洗いだろうと思ってたんですけど、いつまでも戻ってこないので、何となく心配になって下りてきたんですけど」  昼間はあんなに勝ち気そうだったタカコの目に、不安の色が滲んでいた。 「よし」私は立ち上がった。「探しましょう」  我々はタカコと共に、屋敷中の部屋を見て回った。もちろん他の住人は眠っていたが、強引に叩き起こして室内をあらためた。が、次郎の姿はどこにもない。  私は外にいる刑事たちに質問してみた。屋敷から出た者は一人もいない、というのが彼等の答えだった。 「ほかにはもう部屋はないのですか」私は、タカコや、起きてきた他の住人たちに尋ねた。大黒和夫が、「あっ」と声を出した。 「どうしました」と私は訊いた。 「もしかしたら、地下室かもしれない」  彼の言葉に、他の者も、はっとした様子だ。 「地下室というのは?」と天下一が訊いた。 「シェルターです。兄は有事に備えて、地下シェルターを作っていたのです。最近では、こんなものは必要ないとわかって、ほったらかしにしてあったのですが……」 「案内してください」天下一は厳しい顔つきでいった。  二階の階段の裏側に、地下室への入り口はあった。ちょっと見たところは階段下を利用した物置にしか見えないのだが、扉を開けると地下への階段があるというわけだ。「この部屋の存在を知っているのは、この家の住人だけのはずです」と和夫がいった。  階段を下りたところにはコンクリートで囲まれた部屋があった。そのほぼ中央で男が仰向けに倒れていた。タカコが悲鳴をあげ、そのまま失神した。 「全員、そのまま動かないで」そういって私は死体に近づいた。男は大黒次郎だった。胸に登山ナイフが刺さっている。血はさほど出ていない。  私は部下を呼んだ。そして呟いた。「しまった、やられた……」  警官が見張っている中で殺人が起こっただけに、警察の面目は丸潰れである。私は必死の形相を作って、住人一人一人の取り調べを行った。中でも特に気合いを入れたのは、大黒和夫の時だ。一朗と次郎の親子がいなくなったことで、大黒製薬の実権を握るのは、この男ということになる。その一点だけで、私は彼に最重要容疑者のレッテルを貼ったのだった。 「さっさと白状しろ。貴様が二人を殺したんだろう」 「違います。私はやっていない。そんなことをするはずがない」半泣きになりながら和夫は否定した。  だが結局何ひとつ決め手がなく、和夫を逮捕するわけにはいかない。私は腕を組んだ。 「ううむ、もしかすると、犯人は次郎自身だったのかもしれんぞ。何らかの理由で父親を殺したが、罪の重さに耐えかねて自殺したというわけだ。うん、これだ。これに違いない。こう考えると辻褄《つじつま》があう」  私の推理に部下たちも納得しかけた時、天下一がどこからか現れた。 「いいえ、違います。犯人は別にいるのです」 「なんだね、君は。ここは捜査本部だぞ。関係のない者は出ていきなさい」 「では今から僕と一緒に大黒邸に来てください。真犯人を暴いてみせます」 「素人探偵が何をふざけたことをいってるんだ。おもしろい。どんな推理を展開するか、じっくり聞いてやろうじゃないか」  私は部下たちと共に、大黒邸へ出向いた。例によって広い居間に関係者全員が集合した。天下一が徐《おもむ》ろに一歩前へ出る。探偵小説ではお馴染みのシーンだ。 「さて」と彼はいった。「今度の事件では、さすがの僕も悩みました。最大の理由は、犯人像がうまく描けないということです。どういう人物なのか、何が狙いなのか、全くつかみ所がなかったといえるでしょう。そこで僕は、犯人となりうる条件を考えてみました。それは大きく分けて三つありました。第一に、大黒家の内部に詳しいこと。一朗氏がチョコレート好きだったことや、地下室の存在を知っていたことで、これがあげられます。第二に、次郎氏が殺された夜、この屋敷内にいたこと。そして第三に、例の緑のボールペンを一朗氏の書斎のゴミ箱に捨てた人間、ということになります」 「おかしなことをいうじゃないか。それらはすべて、この家の住人全員に当てはまることじゃないのかね」と私はいった。 「たしかに第一と第二の条件はそうでしょうね。でも第三の条件については違うのです」 「どう違うのかね」 「家政婦の紺野さんも御存じなかったことなんですけどね、あの日の朝、一朗氏は、自分で書斎のゴミ箱を掃除なさってたんですよ。中身をビニール袋に入れ、その袋を玄関脇に出しておかれたのです。袋の中から、破られた書簡類がたくさん出てきたので、そのことが判明したわけです。たぶん手紙を見られたくなかったので、珍しく自分で掃除をされたのでしょう」  あっと私は思わず声を漏らした。そういえば初めてここへ来た時、ドアの横にゴミ袋が出ていた。あれは大黒一朗が出したものだったのか。 「その時点でゴミ箱は空っぽだったはずです。つまりボールペンは、その後で捨てられたということになるのです。ではそれが可能だったのは誰か。外出していた和夫さんと運転手の桜田さんには無理です。また、ノブコさんとタカコさんと次郎さん、それから家政婦の紺野さんは揃って食堂におられました。その後チョコレートが届き、例の惨事となったわけですが、一朗氏が倒れるまで、誰も二階の書斎になど行かなかったと、皆さんがおっしゃっています」 「要するに、誰もチャンスがなかったということですね」と和夫がいった。 「そうです」天下一が頷く。 「するとどういうことかね。犯人はこの中にはいないということになるじゃないか」私は天下一の横顔を見ながらいった。 「いいえそうじゃありません。犯人はこの中にいます」 「しかし今の話だと」 「警部」といって天下一はこちらを向いた。 「今いった条件を満たす人物が、たった一人だけいるのです」 「誰かねそれは」と私は訊いた。 「誰です?」 「誰なんですか?」  大黒家の人々も、一斉に探偵に詰め寄った。  天下一は大きく息を吸うと、それをゆっくり吐いてから唇を舐《な》めた。 「怪しまれずに屋敷内を動きまわれ、しかもボールペンを一朗氏の書斎に捨てることができた人間、それはすなわちあなたですよ。警部」  そして私を指差した。  全員が目を見開き、驚きの声をあげた。 「なんだと、何を馬鹿なことを……」 「観念したほうがいいですよ」と彼はいった。「あなたは事情聴取と称して一朗氏の書斎に入った時、こっそりとボールペンを捨てたんだ」 「なぜ私がそんなことをするんだ」 「とぼけても無駄です。何もかも調べがついているんです」 「ふざけるのはよしたまえ。何を調べたというんだ」私は喚いた。 「犯人がチョコレートを買った店を突き止めたのですよ。そこの店員にあなたの写真を見せました。あなたはマスクをしていたらしいですが、その額の傷を覚えていると店員はいいました」  天下一の言葉に、私は思わず自分の額を押さえた。たしかにそこには傷があった。若い頃、ある犯人に切りつけられてできたものだ。 「さらにもう一つ証拠があります。次郎さんが殺された夜のことです。見回りから戻ってきたあなたに、チョコレートのつまみ食いでもしてきたのですか、と僕が尋ねたでしょう? それはですね、警部さんのワイシャツに、チョコレートが付着したような小さな染みがついていたからなんです。あれはチョコレートではなく、返り血だったと僕は考えています。あの時のシャツを調べれば、はっきりするでしょう」 「ううむ……」咄嗟《とっさ》に反論が思い浮かばず、私は立ち往生してしまった。 「そんな馬鹿な、警部さんがまさか、どうしてそんなひどいことを」大黒ノブコがそういったきり絶句し、首を横に振った。  私は彼女の整った顔を睨みつけた。 「どうしてそんなひどいことを、だって? ひどいことをしたのは、あんたたちのほうだ。あんたたちこそ人殺しだ」 「何ですって、なぜあたしたちが人殺しなんですか」 「よくもそんなことがいえるな。ハナコのことを忘れたか」 「ハナコ? あっ」大黒ノブコの顔が険しくなった。「あなたはあの人の……」 「父親だ」私は目を剥《む》いていった。  娘のハナコは、かつて大黒次郎と交際していた。結婚の約束もしており、この大黒家に遊びにきたこともあったのだ。ところが大黒次郎は、突然ハナコを捨て、取引先の社長の娘であるタカコと結婚してしまった。無論、大黒一朗とノブコが、息子にそうするよう命じたのだろう。ショックのあまりハナコは先月自殺した。その時から私は、大黒家に復讐することを考えていたのだ。 「あの人が自殺を……。そうだったのですか。そんなことは全然知りませんでしたわ」  ノブコはうなだれたが、今さら悲しんでもらっても遅すぎる。 「やはり僕の思ったとおりでした」天下一がいった。「毒入りチョコの犯人が内部にいると決めつけたのは、捜査と称してあなた自身が屋敷内を動き回るためだったんだ」 「そのとおりだよ」 「大黒氏がチョコレートに目がないことや、地下室の存在は、娘さんから聞いて知っていたわけですね」  私は頷いた。  部下の刑事たちが、おそるおそるといった感じで近づいてきた。そして遠慮がちに手錠をかける。その顔は、まだ信じられないと語っていた。 「なんてことだ」突然天下一は頭を掻きむしり始めた。「とうとうやってしまった。『私』が犯人という、お決まりのパターン。誰でも作れる意外性。芸もなければ技もない」 「まあ、そういうな」と私は彼を慰めた。「こんな意外性でも喜ぶファンはいる」 「そんなのは本当のファンじゃない」と彼はいった。そしてまたしても読者のほうに身体を向けると、ぺこぺこと頭を下げた。「すみません。今回はアンフェアです。ごめんなさい」  その時バタンと大きな音をたてて、男が一人入ってきた。鼻髭を生やしたその男は、はあはあ息をきらしながら周りを見回し、頭を掻きながらいった。 「やあどうも、遅くなってすみません。ほかの事件に追われていたものですから」  そして彼――大河原警部は、私のほうを見て目を丸くした。 「どうしたんですか、金田警部。顔色がよくありませんね」 [#改ページ] [#ページの左右中央]   第十一章 禁句――首なし死体 [#改ページ]  四角い一階部分を除いて、その塔は白い円柱形をしていた。ところどころに窓がついている以外は、凹凸など全くない、素っ気ない建物だった。  長時間見上げていると首が痛くなってきた。私は右手で首の後ろを軽く叩いた。 「高さは約六十メートルあります」所轄の刑事がいった。彼はまだ上を向いたままだ。鼻の穴から鼻毛が数本覗いている。「直径は約六メートルだそうです」 「灯台にでもするつもりだったのか」  冗談のつもりで私がいうと、刑事は真面目な顔でかぶりを振った。 「いえ、違うと思います。こんな陸地のどまんなかに灯台があっても、役に立たないと思いますから」 「わかった。火の見|櫓《やぐら》だな」 「お言葉を返すようで申し訳ありませんが、今の時代に火の見櫓というのは……」まだ私の言葉が冗談とは気づかず、刑事は答えた。 「要するに」私は咳払いをして訊いた。「この塔は何なのだ」 「屋敷の者の話によりますと、瞑想にふける場所だそうです」 「瞑想に? 何のために」 「当主の雨村氏は、人間社会のしがらみが嫌になったと漏らすことが多かったそうです。そんな時にここへ上り、精神をリフレッシュしていたらしいです」 「ふうん。金持ちには金持ちなりの悩みがあるのだな」  私は塔の周囲を見回した。塔の南側には、ヨーロッパの貴族が住みそうな大邸宅があり、北側は小高い丘になっている。西は林で、東は専用ゴルフコースだ。これらすべてが雨村家の敷地内に収まっているのだから、金はあるところにはあるものである。 「昨日の夜、雨村家にいたのは?」 「現在わかっているかぎりでは、昨夜行われたホームパーティに出席していた、親戚知人ら二十三人です」 「その中に風間大介も入っているのか」 「いえ、風間氏は含まれておりません。風間氏はパーティどころか、屋敷内にさえ入っていないらしいんです」 「屋敷にも入ってない? どういうことだ」 「わかりません。屋敷には入らず、直接この塔に来たようです」 「ふうん」私はもう一度塔を見上げた。「よし、とにかくこの中に入ってみよう」  朝だというのに、中は薄暗かった。入った正面は管理人室になっていて、痩せた老人が窓の向こうでテレビを見ていた。老人は我々に気づくと、あわてた様子で眼鏡をかけ、小さく会釈した。 「あの人が風間氏を目撃しているんです」と刑事がいった。  私は老管理人から事情を訊くことにした。 「風間さんがきたのは夜の十一時半頃だったと思います。入ってくるなり、何もいわずに階段を上がっていかれました。風間さんはここへはちょくちょくいらっしゃいますから、こんな時間に妙だなどは思いましたけど、あまり気にしませんでした」老管理人は、眼鏡の位置をしきりに気にしながら話した。 「たしかに風間氏だったか?」念のために私は訊いた。どうもこの爺さんの視力が頼りなさそうに思えたからだ。  しかし彼は心外な、という顔をした。 「風間さんです。見違えたりしません。何しろつい先日、新しい眼鏡を作ったばかりなんです」分厚いレンズの入った老眼鏡を外して見せた。 「服装は?」 「黒のタキシードだったと思います」  するとパーティには出るつもりだったということか。 「風間氏の前に塔に上がっていった者はいないのかね」 「いません」老人は断言した。 「その後は?」 「いません」さらに強く老人は答えた。 「間違いないな」 「間違いないです。なかなか風間さんが下りてこないので、おかしいなあと思っていたら、十二時半頃になって、お屋敷のほうから秘書の方がやってこられたんです」 「で、雨村氏がいなくなったので探していると秘書はいったんだな」 「はい。旦那様がこちらに来られなかったかと訊かれました。旦那様は来ておられませんが風間さんなら上にいらっしゃいますというと、秘書の方は不審がられて上がっていかれました」 「そうして……見つけたわけか」 「そうらしいです」と横の刑事が答えた。 「わかった。じゃあ、ともかく上がってみよう。エレベータはどこかね?」 「エレベータはないです」管理人が答えた。「階段でどうぞ」 「なんだと、六十メートルの高さを階段で上がるのか」 「はあ」管理人は額いた。  私は隣で申し訳なさそうにしている刑事を見て、それからもう一度管理人に目を戻し、大きくため息をついた。  壁の内側に沿って作られている螺旋階段を、我々は上がっていった。所有者の雨村にしても一気に上がるのはきついらしく、途中何箇所かに椅子を置いてある。そこには外を見られるよう窓ガラスがついているが、ガラスは嵌め込み式で開けることはできなかった。 「風間は、はあはあ、冒険家だったそうだな」あえぎながら私は所轄の刑事に訊いた。 「そうです。ふうふう。雨村氏は、はあはあ、風間氏の、ひいひい、スポンサーでした」 「なんでまた、フーフー、雨村氏が、ハーハー、スポンサーを?」 「二人は、高校の、同級生で、その縁だ、そうです。ぜえぜえ」  ふらふらになりながら我々は、ようやく一番上に辿り着いた。鉄製の扉を開け、外に出た。そこは円形の展望台になっている。 「あっ、大河原警部。御苦労様です」先着していた部下が挨拶した。彼を含む四人の捜査員が、青いビニールシートの包みを囲んでいる。シートの端から革靴を履いた足が二本、はみ出ていた。 「それが被害者だな」見ればわかることだが、私は一応尋ねた。 「そうです。御覧になられますか」部下の一人が訊いた。 「無論だ。シートをめくってくれ」  私がいうと、部下たちは一瞬憂鬱そうな顔になった。やがて一人が中腰になり、シートの一部を掴んで、そのまま開いた。タキシードを着た死体の様子が、私の位置からはっきりと見えた。 「うーむ」私は唸った。気分が悪くなったが、これまでに何度も死体は見ているので、嘔吐するようなことはない。しかし顔をしかめるのを我慢することはできなかった。  死体には首がなかったのだ。  発すべき言葉もなく私が立ち尽くしていると、背後から足音と共にゼェゼェという声が聞こえてくるのが耳に入った。振り返ると、天下一大五郎が相変わらずのくたびれたスーツ姿で上がってくるところだった。 「やあこれは、ゴホゴホ、大河原警部」私を見て、探偵はうれしそうな顔をした。 「何をしにきた」 「何をって、そりゃあ仕事ですよ。首なし死体が見つかったそうじゃないですか。あっ、それが死体ですね」展望台に上がってきた天下一は、私を押し退けてビニールシートに近づいた。「うわお……」 「ふん、さすがの君も今度ばかりはビビッとるようだな」 「びっくりしました。ところで大河原さん、被害者の身元はわかっているんですか」 「風間大介、冒険家だ」  私は先程管理人から聞いた話などを含めて、事の次第を天下一に説明した。本来なら警察が素人探偵に捜査で得た情報を漏らすなんてことはありえないのだが、そんなことをいってたら話が進まないから、どんどんしゃべってしまうのである。 「なるほど。そうすると、謎がたくさんありますね」天下一がいった。 「そんなことはわかっておるよ。状況から考えて他殺であることは間違いない。ところがこの塔に上がったのは風間氏だけ。では犯人はどこから来て、どこへ消えたのか、というんだろう?」 「まだあります。なぜ犯人は首を切ったのか。その首はどこへ消えたのか」 「本格マニアが涎《よだれ》を垂らしそうだな」 「小道具は揃った、というところですか」  私は塔を下り、屋敷のほうに向かった。昨夜から行方知れずになっている雨村氏のことを調べるためだった。天下一もついてきた。  まず最初に会ったのは、死体を発見した霧野という秘書だ。若いやさ男で、ショックのあまり寝込んでいたということだった。霧野は雨村氏の秘書をして三年になるという。 「昨夜のパーティは、社長の妹さんの誕生日を祝うものでした。大抵の方は十時頃にはお帰りになりました。残っておられたのは、妹さん御夫婦とごく親しい御友人だけで、その方々はお泊りになられたのです。十時以降は各自ばらばらに、お部屋に戻られたり、まだ少しお酒をお飲みになったりしておられました。社長の姿が見当たらないと皆がいいだしたのは、十二時前だったでしょうか。どこを探してもいらっしゃらないので、もしやと思って塔のほうへ行ったのです。でもまさか、あんなものを見つける羽目になるとは……」  その時のことを思い出したらしく、霧野は顔を一層青ざめさせた。 「風間さんもパーティに呼ばれていたのですか」 「いえ、風間さんがお見えになるという話は聞いてませんでした」 「一番最後に雨村氏を見たのは誰ですか」 「それがよくわからないのです。十時頃に、皆さんを玄関までお送りになっていたところは、皆が覚えているのですが……」  ここで天下一が質問した。「その時の雨村氏の服装はどういうものでしたか?」  秘書はすぐに答えた。「黒のタキシードでした」 「なるほど」探偵は納得したように頷いた。  次に会ったのは雨村氏の妹夫婦だ。妹の雲山雪子は、わけのわからない冒険家が変死したことよりも、たった一人の肉親である雨村氏がいなくなったことのほうが重大事のようで、早く兄を探すようしきりに我々にハッパをかけた。  またさらに、こんなこともいった。 「風間さんが殺されたことについて、兄を疑っているんだとしたら見当違いです。兄はそんなことをする人じゃありません」 「別に我々は雨村氏を疑ってませんよ。なぜそうお考えですか」 「だって風間さんが殺されて、同時に兄がいなくなったら、兄が犯人だと思うのがふつうじゃないですか」  私は天下一を見た。天下一は複雑な顔をした後、うつむいて苦笑していた。  雪子の後に、旦那の雲山五郎に会った。四角い顔をした、律儀そうな男だった。聞けば会社をいくつか経営しているという。もっとも、レジャー産業と不動産売買で財を築いた義兄の雨村荒一郎ほどではないらしい。  事件について何か心当たりはないかと私は訊いた。 「何もありません。私は風間さんのことはよく知らないし」雲山はおとなしい口調でそういった。 「大河原さん、一つ気になっていることがあるんですが」雲山夫妻からの話を聞き終え、屋敷を出て少し歩いたところで、天下一が立ち止まっていった。 「なんだ、改まって。捜査上の提案なら、せっかくだが大きなお世話だぞ。素人探偵に指導されるほど落ちぶれちゃいない」 「捜査のことじゃありません」天下一はかぶりを振った。「小説の展開についてです」 「何か文句があるのか」私は小説世界を離れて訊いた。 「僕は、ある程度の見え見えトリックは容認します。でも今回のはひどいです。殆どの読者が、すでに気づいている部分があります。それを何とかしたいと思います」 「ははあ、あれのことだな」 「あれのことです」と天下一はいった。「この時点で、首なし死体が風間だと思っている読者は、余程の呑気者か、この小説を真面目に読んでいないかのどちらかです」 「だろうな」私も同意した。「死体がじつは雨村だ、なんてことは、小学生でもわかるだろうなあ」 「首なし死体が出てきたら、死体は別人だと思えというのはセオリーですからね。犯人と被害者が入れ替わってる、なんていう推理小説は星の数ほどある。そんな見え透いたことを、最後の謎解きで勿体《もったい》振って明かすなんてこと、僕はしたくありませんからね」  わはは、と私は笑った。 「その点なら大丈夫だ。この次の展開で、被害者はじつは雨村だったと判明することになっている。科学捜査を無視するわけにはいかんからな」 「それを聞いて安心しました。すると謎の内容は、いつ雨村氏は塔に上がったのか、誰に殺され、なぜ首を切られたのか、そして風間大介はどこへ消えたのか、ということになりますね」 「そうだな。中でもメインはやはり、犯人が雨村氏の首を切り落とした理由だろう」 「ほかの謎も、すべてこの点に集約されるという感じがしますものね」 「犯人が死体の首を切る理由としては、どういうものが考えられるかな」 「あえて首だけを切り落とすというのは、全身をバラバラにするのとは、少し意味が違うと思うんです。やっぱり顔を隠したいというのが一番の理由でしょうね。完全に隠すことは不可能でも、身元が判明するまで、時間を稼ぐことはできます」 「現実的だが面白くはないな。そんなんじゃあ本格ファンは納得せんだろう」私は顔をしかめていった。 「何かのカムフラージュということもあります。犯人は自分のピストルで被害者の頭を撃った。ところが弾丸が頭の中に残っている。それを発見されたくないので頭部ごと隠す」 「それもまた悪くはないが、地味だな」 「じゃあこういうのはどうです。人間が死ぬ直前に見た情景は、網膜に焼き付けられるという話を聞いたことはありませんか」 「いや、ない。そんなことが実際にあるのか」私は驚いて訊いた。初耳だった。 「ありません」天下一は、あっさりといった。「でも、そういう言い伝えを信じている人間が犯人だったらどうでしょう。殺す直前に被害者は自分の顔を見た。このままではまずい。そこで首を切り落とし、処分する」 「それで読者が納得するかあ?」私は腕組みをした。 「まっ、作者の腕次第でしょうね」 「じゃあ今回はそれはないな。この作者に、そういうアクロバットは無理だ」 「でしょうね」天下一はにやにやした。 「意外に単純な理由だったりしてな。単に雰囲気を猟奇的にしたかっただけ、とか」 「もしそうだったら、作者をぶん殴ってやりましょう」  我々は顔を見合わせて頷いた。  私が天下一に予告した通り、間もなく死体は風間大介ではなく雨村荒一郎だと判明した。ここまで死体は風間だという前提で捜査を続けてきたから、一からやり直しである。また体内から、強力な植物毒が検出されていた。  兄に殺人容疑がかかるのではと心配していた実妹の雲山雪子は、一転被害者の肉親としての悲しみを味わわなくてはならなくなった。 「信じられません、兄が殺されるなんて……。しかもあんな姿で……」旦那に抱きかかえられたまま、わあわあと泣くばかりである。 「死体は御覧になられましたか」と私は訊いた。 「身体の部分だけ見せてもらいました。残念ですけど、兄に間違いありませんでした。最近急に太ってきて、おなかなんかも以前に比べて出てましたけど、兄です。でも一体誰があんなひどいことを……」 「お心当たりはないわけですね」 「全くございません。兄が人に恨まれるなんてこと、考えられません」  金持ちが全く恨まれないなんてことはありえないと思ったが、雪子が今にもヒステリーを起こしそうだったので黙っていた。  さて最初は被害者と思われた風間大介だが、今や完全に容疑者となっていた。捜査の結果、雨村が風間のスポンサーを降りようとしていたことが判明している。それを阻止するために、殺したのだろうと推測された。警察力を総動員し、我々は風間を探した。  だが仮に風間が見つかったとしても、解決すべき問題はいくつもあった。  その後の捜査で、塔の真下の土に大量の血が混じっていることが見つかっていた。また首を切るのに使ったと思われるの鋸《のこぎり》も発見された。おそらくここが首を切った現場だろうと思われた。しかしそうなると、首なし死体をどうやって塔の上まで運んだかという点が引っ掛かってくる。  ただ風間が塔から姿を消した方法については、大体見当がついていた。風間はスカイダイビングのライセンスを持っているとわかったからだ。冒険家なのだから、そのぐらいは当然かもしれない。 「おそらくパラシュートに乗って、ふんわりと塔から降下したんだ。あの時間なら屋敷を除いて敷地内に人気はない。楽々と逃げられただろう」  捜査会議で私は自分の推理を披露した。 「でも管理人の話だと、風間はそんな大きなものは持ってなかったみたいですよ」青二才の刑事が生意気にも反論した。「やっぱりロープで降りたんじゃないですか」 「あんな爺さんの証言は当てにならんぞ。最近は眼鏡を作ったとかいっていたが、それまでは鏡に向かって挨拶するぐらい目が悪かったらしい。大体あの塔の上には、ロープの端をくくりつけられるようなところはなかったぞ。パラシュートだよ」  私が強引に自分の説を主張した時、一人の刑事が部屋に飛び込んできた。 「たいへんです」 「なんだ、騒々しい」 「かかか、風間の死体が見つかりました」 「なんだとっ」私は勢いよく立ち上がり、その拍子に脛《すね》を机の脚にぶつけた。  風間の死体が見つかったのは、塔の西にある林の中だった。枝にロープを巻き付け、首を吊って死んでいたのだ。 「ううむ風間の奴め。逃げられないと思って自殺しやがったな」  やがてそばからビニール袋に入った雨村の首が見つかった。発見した若い警察官は、しばらくゲエゲエやっていた。 「警部、向こうの林の中に、こんなものが落ちていましたが」部下がやってきて何か黒いものを見せた。 「なんだ、それは。ラジオみたいだな」 「事件とは関係ないでしょうか」 「関係ないだろう。誰かが捨てていったものじゃないのか」 「いえ、関係はおおありですよ」背後から声がした。振り返ると天下一がステッキを振りながら近づいてくるところだった。 「なんだ君は。捜査の邪魔だぞ」 「邪魔する気はありません。むしろ僕は、今回の謎解きをしようと思っているんです」 「謎解きだと? せっかくだが、このとおり犯人は自殺した。事件は解決だよ」 「とんでもない。真相は全く解明されていません。大河原さん、すみませんが、関係者全員を集めていただけませんか。塔の下、そう死体の切断が行われた場所に集まることにしましょう」  全員が集まったところで、天下一は深呼吸を一つした。いよいよこの小説の見せ場である。 「雨村氏を殺したのは風間です。これは間違いありません。風間はパーティの後で、この塔のそばで雨村氏と会う約束をしていたのです。そして何かうまいことをいって毒を飲ませ、殺害しました。その後風間は何くわぬ顔で、塔の中に入り、管理人に姿を見せてから階段を上がっていきました」 「ちょっと待て。死体を置いたままか?」私は訊いた。 「そうです。死体は下に置いたままです。さて塔に上がっていった風間ですが、ここで一つ誤算がありました。管理人が、風間だと気づいてしまったということです。じつは風間は、目の悪い老管理人には自分の顔が判別できないだろうとタカをくくっていたのです。ところが管理人は眼鏡を新調したばかりでした」 「そうだったな」 「ただ風間はそのことには気づいていません。計画通り塔のてっぺんに上がると、死体を待ちました」 「死体を待つ? どういうことだ」 「共犯者が死体を上げてくれるのを待ったのですよ」 「なんだと、共犯?」私は大声を上げた。「共犯者がいたのか」 「そうです。風間の死体から少し離れたところに、小さなラジオのようなものが転がっていたでしょう? あれはラジオではなくトランシーバーです。風間と共犯者は、塔の上と下でトランシーバーを使って話をしていたのです」 「誰だ、その共犯というのは?」そういって私は関係者全員を見回した。全員が不安そうにお互いの顔を見た。  天下一は雪子の隣に立っていた男を指差した。 「共犯者はあなたですよ、雲山さん」 「なんですって」まず雪子が声を張り上げた。 「なななな、何を、何を、なにをいいだすんだ」雲山は顔をぶるぶると振った。 「調べさせていただきましたが、あなたの会社はかなり経営が行き詰まっていたようだ。あなたとしては頼れるのは義兄の雨村氏しかいない。ところが最近雨村氏は、あなたのことを嫌っていた。理由は、あなたに愛人がいることを知ったからです」 「えっ」雪子が目を剥いた。「あなた、本当なのっ」 「ばばば、馬鹿な。本当のはずがないじゃないか」 「ところが残念ながら本当です。雨村氏が親しい人に漏らしていたのです。雨村氏は激怒し、雪子さんと別れさせることも考えておられたようです。そうなるとあなたはピンチだ。その局面を打開する方法はただ一つ、雨村氏を殺すことだった。そこで同じ狙いを持った風間と手を組むことにしたのです」 「違う、うそだ、でたらめだ」雲山は喚いた。 「探偵さん、主人が一体どんなことをしたというんですか」とりあえず話を聞いてみようという感じで、雪子は感情を押し殺した声を出した。 「雲山さんはトランシーバーで、風間からの連絡を受けると、自分の車に乗って塔の裏手つまりこの場所までやってきました。そして雨村氏の死体を見つけると、それを塔の上に運ぶ用意をしました」 「おい、そこだ」と私は口を挟んだ。「死体のような重いものを、どうやって上に運んだんだ」 「仕掛けは簡単です。これを使ったのです」天下一はそういうと、そばにとめてあった車のトランクを開けた。中から現れたのは、シートを畳んだようなものと、太いガスボンベだった。天下一はシートを広げた。それは巨大な円形をしていた。いや円形というのは適切ではない。球をしぼませた形だ。  あっと私は声を漏らした。「それはもしかすると……」 「そう、巨大風船です。これは風間が、次回の冒険で使うつもりで某ゴム会社に発注したものの一つです。犯行に使われたのも同じものだったはずです」  天下一は風船の端についているフックを、私のズボンのベルトに引っ掛けた。 「わっ、何をするんだ」 「雪山さんはこのように、死体のベルトに風船を引っ掛けたのです。そしてヘリウムガスを入れました」  天下一がボンベのバルブを開くと、そこからチューブを介して、風船にガスが入り始めた。風船はみるみる大きくなり、まもなく宙に浮き出した。天下一はさらにガスを入れる。膨れた風船はついに私のベルトを引っ張り始めた。 「わあ、助けてくれ」立っているのが辛くなり、私は手足をばたばたさせた。 「もうおわかりでしょう。このようにして死体を宙に浮かせたのです。このままでは風でどこへ飛んでいってしまうかわからないから、おそらくその前に上から風間が紐を垂らし、それに風船をくくりつけてあったんでしょう。風間としては、浮かんできた死体を手元に引き寄せるだけでよかった。そして死体を塔の上に置いて、今度は自分が風船に乗って脱出する」 「なるほどそういうことだったか」私は苦しい体勢でいった。「でもどうして首を切り落としたんだ」 「それは最初の計画には入っていなかったことでした。最初の計画では、雨村氏の死体はまともな形で塔の上で発見されるはずだったのです。またさっきもいいましたように、管理人は塔に上がった人物の顔を正確には判別できないと犯人たちは考えていました。これらがすべて計画通りに進んでいたらどうだったでしょう? 塔に上がったのは雨村氏で、氏は塔の上で自殺したと警察は考えるのではないでしょうか」 「そうか、雨村氏が悩みのある時に塔に上がるというのは、誰もが知っていることだしな。……ううむ、じつに悪がしこい奴らだ。しかしそうなると、ますます首を切った理由がわからなくなるぞ」 「ポイントはそこです。主犯格の風間は、そういう計画で進めるつもりだった。ところが共犯の雲山氏は、寸前で風間を裏切ったのです。死体の首を切り落とせば、自殺説は消える。そうしておいて風間を殺せば、すべての罪を風間に押し付けることができます。雨村氏がいなくなった時点で、雪山氏にとって邪魔なのは、風間ただ一人だったのです」 「違う、違う、そうじゃない、そうじゃないんだ」  雪山が暴れ始めた。それを部下たちが取り押さえた。雲山はわあわあと泣いている。 「抵抗しても無駄ですよ。あなたの家を捜索すればわかることです。おそらくガスボンベやら、風船が出てくるはずです」 「うむ、そうだ。早速手続きしよう」風船に吊られた格好のままで私はいった。 「あなた、なんということを、人殺しなんて、しかも兄を」ここまで辛うじて平静を保っていた雪子が、突然取り乱し、そのまま失神した。 「違うんだ、違うんだ。私は殺していない、誰も殺していない」雲山は泣きながら主張した。 「見苦しいですよ。たしかに雨村氏を直接殺したのは風間かもしれないが、その風間を殺したのはあなたでしょう」 「いや、それが違うんだ。あいつ、失敗したんです。風船の着陸に失敗して、ロープが枝に絡みつき、そのロープの端がまた運悪く首に巻きついて死んじゃったんです。私が行った時には、もう息がありませんでした。それで悪いとは思ったけど、雨村の首を捨てて、風船とかは回収して逃げてきたんです」 「ロープが絡まった? そんな馬鹿な」天下一は眉をつり上げた。 「本当なんです、信じてください」 「じゃあなぜ雨村の首を切ったんだ」と私は訊いた。「風間に罪を着せるつもりだったからじゃないのか」 「それが違うんです。首を切ったのは、やむをえない事情があったからなんです」 「なんだ、それは」 「いやあ、じつは」雲山は涙と洟《はなみず》を袖で拭《ぬぐ》ってからいった。「浮かばなかったんです」 「はあ?」 「なんだと?」 「浮かなかったんですよ。ヘリウムガスをぱんぱんに入れても、死体が浮かなかったんです。ちゃんと体重とかを計算してあったんですけど、義兄が最近急激に太ったってことを忘れてたんです。さらにガスを入れて破裂したら大変だし、すごく焦りました」 「もしかして、それで……」天下一が不安そうに訊いた。 「そうです。人間の身体で一番重い部分はどこかと考えて……」 「うーむ」 「うーむ」  私と天下一はしばらく唸り続けた。その後で天下一はふと思いついた顔で訊いた。 「だけど、それならどうして鋸を持っていたんです。変じゃないですか」 「いや、それはですね。車のトランクにたまたま入っていたんですよ。ラッキーでした」 「何がラッキーだ」天下一は語気を荒らげた。「そんな御都合主義な」 「だって」雲山は天下一を見て、続いて私のほうに顔を向けると、頭を掻きながらいった。 「御都合主義なんて、トリック小説にはつきものでしょう?」 「あっ」 「あっ」  天下一は顔色を変えた。たぶん私の顔も同じだっただろう。 「ななな、何をいうか」思わず声が震えた。 「失礼な」 「ふざけるな」 「御都合主義なんて」 「そんな」 「禁句を」  我々は雲山の頭をポカポカ殴り始めた。 [#改ページ] [#ページの左右中央]  第十二章 凶器の話――殺人手段 [#改ページ]  缶ビールを飲みながら『鬼平犯科帳』を読み、眠くなったところでベッドに入った。ところが少しうとうとしかけた頃になって、誰かがドアをノックした。スタンドのスイッチをつけてみると、夜中の一時過ぎだ。私は頭を掻《か》きむしりながらドアのところへ行った。 「どなた?」 「おやすみのところすみません。町田です」  私は鍵を外し、ドアを開けた。町田清二が申し訳なさそうに立っていた。 「町田さん、こんな時間に何事です」 「じつは、たいへんなことが起こったんです。どうしていいかわからなくて……そうしたら女房が、大河原さんに相談したらどうかといいますもので。あの、ええと、大河原さんは東京の有名な警部さんと伺っておりますし」 「いや、それほどでもありませんがね。たいへんなこととは?」 「それが」町田清二は唾を飲み込んでからいった。「兄が死んでいるんです」  私は思わず背中を伸ばし、その拍子に二センチばかり飛び上がった。 「何ですって? どこでです」 「中庭です。ちょっと来ていただけますか」 「もちろんです。いや、その前に着替えを」  私はベッドに戻り、ポロシャツとスラックスに着替えた。やれやれこんなところへ来て事件に巻き込まれるとは、全くついていない。  着替えを終えると、町田清二の後について、階段を降りていった。  私の唯一の趣味は旅をすることである。だから捜査が一段落して、たまに連休をとれたりすると、ふらりと夜行列車に乗って出掛けることもある。  今回私は異文峠《いぶんとうげ》というところに来ていた。周囲は山に囲まれている。どの山も標高はそれほどでもないが、とにかく険しい。だから食料などは、週に一度トラックで運んでくるのだそうである。こんなところだから一般観光客などは殆どやってこない。ただ一つだけあるロッジに泊まっているのは常連ばかりである。彼等はどうやら、世間から隔離された環境が気に入っているようだ。  かくいう私も、このロッジ『ロの字館』の常連客である。日夜犯罪捜査に追われていると、ふとこういうところで命の洗濯をしたくなるものなのだ。  このロッジは元々、町田清一郎という人物が別荘として建てたものだった。だが交通が不便ということもあり、あまり利用する機会がなかった。そこでこのままでは勿体ないということで、弟夫婦を管理人にして、ロッジ経営をするようになったのだった。その弟というのが町田清二である。 『ロの字館』と聞いて、変な名前だなあと思った読者は少なくないはずである。これは別に、「ロッジ」に引っ掛けた駄洒落ではない。じつはこの建物は上から見るとカタカナのロの字に見えるのである。中庭が真ん中にあって、それを囲むように部屋が作られている。一階には管理人夫妻の部屋のほか、食堂やラウンジなどがあり、二階には客用の個室が八つある。さらにその上にも部屋があるが、そこはたまにオーナーが来た時に使用する部屋だ。一階では、中庭に面した部分はガラス張りになっている。人工的に作られた庭園を眺めながら、食事をしたり酒を飲んだりできるわけである。庭の上は吹き抜けになっており、二階や三階からだと手すり越しに見下ろせる。天井もガラス張りで、季節と時間帯によっては、太陽光がたっぷりと入りこんでくるのだった。また星空を眺めることもできる。  町田清二と一緒に一階に降りていくと、薄暗いラウンジの椅子に誰かが座っていた。もしかしたらこれが死体かと思ったが、そうではなかった。その影はこちらを振り向いた。 「泰子、あれから何か変わったことは?」町田清二が訊いた。 「いいえ」泰子夫人は首を振ってから、「たいへんなことになっちゃったんです」と私のほうを見ていった。 「清一郎氏の死体は?」 「あそこです」そういって町田清二は、持っていた懐中電灯のスイッチを入れると、その光を遠くに向けた。  私は光の先を見た。それは中庭に向けられていた。ガラス越しに観葉植物が見える。そしてその傍らに、男が一人倒れていた。禿げた頭と、相撲取りかと思うほどの肥満した体形は、紛れもなく町田清一郎のものだった。ブルーのガウンを着ているようだが、ところどころ黒っぽい色に染まっている。血が溢れ出ているらしい。よく見るとガラスにも飛び散っていた。なるほどこれでは、一目見ただけで死んでいるとわかっただろう。 「死体を見つけたのはどちらですか」夫妻に尋ねた。 「私です」と町田清二が答えた。「見回りをしているうちに見つけたんです」 「何時頃?」 「ええと」彼は腕時計を懐中電灯で照らした。「一時ちょうどぐらいだったと思います」 「物音か何か聞きましたか」 「いえ、何も聞こえなかったです」 「その前にここを通ったのは何時頃ですか」 「十二時頃です。その時には何もなくて、一通り見回って、ボイラーの点検なんかをして戻ってきたら……」  死体があった、ということらしい。 「もう少しよく見たいのですが、中庭に入れますか」 「はい、それはもちろん」  町田清二は腰にぶらさげていた鍵の束を持ち、フロアの中央部にある中庭に近づいていった。周囲をガラスで囲まれているが、そのうちの一面にはアルミサッシの戸がついていた。彼はそこの鍵を外した。 「あなたがたは近寄らないように」そういうと、懐中電灯を借りて私一人で中に入った。  町田清一郎は、背泳ぎをするような格好で倒れていた。ガウンがはだけ、丸い腹が出ている。  外傷は、見たところ三箇所あった。胸、右太股、左掌だ。いずれも何か鋭い刃物で突き刺されたものと思われた。特に左手の掌などは貫通傷だ。 「うーむ、これはひどい」頭の上から声がした。  私はぎくりとして見上げた。二階の手すりから、天下一が覗きこんでいた。 「あっ、こら、いつの間に」 「だってそんなに大騒ぎするんですから、何事かと思っちゃいますよ」 「部屋に入ってろ」 「何をいってるんです。そんなわけにはいかんでしょう。今、降りていきます」天下一の顔が消えた。  困ったもんだ、という表情を私はするわけである。また素人探偵が首を突っ込んできやがる、というところだ。  ここに天下一大五郎がいることは、別に不思議でも何でもない。私がこのロッジに泊まることをどこからか嗅ぎつけてきて、自分も一度行きたかったのだとかいって、ついてきたのである。 「刺殺ですね」そういいながら天下一は中庭に入ってきた。「凶器は落ちてませんか」 「落ちとらんようだな」周りを懐中電灯で照らし、私はいった。 「殺害現場はどこでしょう?」 「寝惚けてるのか。ここに決まってるだろうが。この飛び散った血を見てみろ。これは偽装工作などではない」 「ふむ、まあそうかもしれませんが」天下一は腕組みをすると、吹き抜けを見上げた。それから心配そうに覗きこんできた町田清二に尋ねた。「現在、戸締りはどうなっていますか。鍵があいているところはありますか」 「いえ、ありません。さっき見回った時、非常口も玄関も、全部鍵がかかったままです」 「それらの鍵はどこにありますか」 「私たちの部屋です」 「でも町田清一郎氏も持っていたんでしょう? 何しろオーナーなんだから」 「いえ、兄は面倒くさいからといって、自分では鍵を持たなかったんです。持っていたのは自分の部屋の鍵だけです」 「ほう」天下一はにんまりした。「面白くなってきた」 「あのう、それでこれからどうすれば」町田清二が心配そうに訊く。 「決まっている。大至急、地元の警察に連絡しなさい」と私はいった。 「あ、はいはい」町田は足をもつれさせながらラウンジを横切っていった。  次に町田の妻の泰子が顔を出した。 「ほかのお客さんには知らせなくてもいいでしょうか」  私は天下一を見た。すると彼は私の耳元で、「犯人がこのロッジの中にいるのは確実です」と囁いてきた。  私は泰子にいった。 「全員叩き起こしなさい。そうしてこのラウンジに集めるんだ」  この夜『ロの字館』には、私と天下一以外に五人の客が泊まっていた。サラリーマンの宮本治とその婚約者佐藤リカ、エッセイストのA、日本一周旅行をしている最中の学生B、絵描きのC……以上の五人である。  この中で事件に関係している可能性があるのは宮本治だけである。彼の勤めている会社が、死んだ町田清一郎が経営する薬品メーカーだからだ。清一郎はこのロッジを会社の保養所としても使っているので、社員が利用することもたまにあるのだ。佐藤リカは宮本の恋人だから、間接的にせよ清二郎と繋がりがあるわけだから、主な登場人物に含めてもまあよかろう。残りのABCは、明らかに作者がミスリードのために出してきた、本筋とは関係のない人物である。そのことが読者にさえも見え見えという、いないほうがましな登場人物だが、客があまりに少ないのも不自然だろうということで作者が出してきたに違いない。そんな程度だからわざわざ名前で呼ぶ必要もないので、アルファベットで済ませてしまうわけである。  アルファベットを使わねばならない人間は、まだ何人かいる。料理人Eにアルバイトの従業員FとGだ。彼等は別棟に寝泊まりしていて、犯行は物理的に不可能だった、ということにしておこう。  一般客のほかに、もう一人宿泊している者がいる。清一郎の若い愛人、桃川好美だ。清一郎は十年前に妻を亡くしている。好美は三階にあるオーナー専用室で、清一郎と共に泊まっていた。  当然最も怪しいのは、この桃川好美ということになる。私と天下一は彼女だけを別室に呼んで、詳しく話を聞くことにした。 「ここへ来てからの清一郎氏の様子に、何か変わったところはなかったかね」 「何もなかったわよ。セックスだって元気いっぱいだったし」好美は屈託なく答えた。 「寝る前にはどんな話をしましたか」天下一が訊いた。 「えーと、好きな食べ物の話とか、今度買ってもらう指輪の話とか」そういってから好美は顔を歪めた。「あれー、あの人が死んじゃったら、指輪はどうなるのかなあ」 「清一郎氏は、すぐに眠りましたか」天下一が質問を続けた。 「さあ、よくわかんないな。あたしのほうが先に寝ちゃったから。あ、でも、なんだか時間を気にしてたみたいだった。何度も何度も時計を見てたから」 「時計を」天下一はこちらを見て首を傾げた。  好美が部屋を出ていってから、私はため息をついた。 「キャラクター的に、犯人ではないなあ。パトロンが死んだことを少しも悲しんでいるように見えないが、あれは単にビジネスライクな付き合いだったからだろう」 「いや、巧妙な芝居かもしれませんよ」天下一が反論する。「あまり派手に悲しむと却って怪しまれると計算した可能性は充分にあります」 「ふうん。それほど頭がいいようには思えんが」それから私は咳払いをし、声をひそめていった。「ところで今回の事件は、どういう範疇《はんちゅう》に属するものなんだ」 「その話ですか」天下一がにやにやした。小説の主人公の顔から、野次馬の表情に変わっていた。「さて、どうでしょうね。天下一シリーズも回を重ねるにつれ、そろそろ種が尽きてきた感があります」 「勿体振るなよ。わかってるんだろう。やはり閉ざされた空間での犯人探しか」 「その要素もありますが、メイントリックは別でしょう。犯人が誰であっても、さほど意外でもないわけですから」 「メイントリックか。ええと死体が鍵のかかった中庭で見つかったわけだから、やはりその、なんというか、君の嫌いな」私は口ごもった。 「密室ではありませんよ」天下一が不機嫌さを露わにしていった。「たしかに中庭は一階ではガラスに囲まれていますが、二階や三階に対しては全くオープンだということをお忘れなく」 「そうだったな。死体の発見場所が奇抜なわりには、不可能犯罪というわけでもないというか。するとメイントリックは何になるのかな」 「おそらく」天下一は人差し指を立てていった。「凶器でしょう」 「凶器?」 「大河原さんは、なぜ犯行現場に凶器がなかったと思いますか」 「凶器から、犯人の正体がばれると思ったからじゃないか」 「凶器は最大の手掛かりでもありますからね。逆に凶器が見つからないと、捜査は困難になります。どうやって殺害したのか説明できなければ、いくら怪しい人間でも逮捕できませんからね」 「すると今度の事件では、凶器がなかなか見つからんというのかね」 「そうなるだろうと思います。それを推理するのが、今回のテーマです」  ううむと私は唸った。 「今回は刺殺だったな。手と足と胸の三箇所だ。いずれも鋭い刃物によるものだった」 「ナイフか細身の包丁というところでしょう。でも本当にそういう凶器であることは、まず考えられませんね」 「そこに犯人の工夫があるといいたいわけだな」 「そういうことです」  我々がそんな話をしていると町田清二が顔を出した。 「ええと、地元の警察の方が到着しましたけど」 「ようやく来たか」私は腰を上げた。  十数人の捜査員の指揮をとっているのは、流行後れの背広を着た、谷山という貧相な署長だった。その谷山が媚びた笑いを浮かべて私に近づいてきた。 「いやあもう、東京の警部さんがいらっしゃると聞いて安心いたしました。こんな田舎ですからなあ、まともな事件なんて起こったことがないんですよ。ましてや殺人事件なんてのは、署始まって以来のことでして、正直なところ、途方に暮れながら駆け付けたというわけなんです」 「では私も応援という形で捜査に加わらせていただいても構いませんか」 「ええ、それはもう。応援というより、どんどん指示を出してくだきって結構です。とにかくこんな事件、初めてですからなあ」  断るまでもないだろうが、実際にはこんなことはありえないのである。たとえ職業が警察官でも、よその管轄に行ってしまえば一般人と何ら変わるところがない。しかも警部なんてのは、地方公務員にすぎない。事件捜査に口出ししようものなら、「引っ込んでろ」と地元の警察官にいわれるのがオチである。  しかしそういうことをいってたら、この小説が進まないので、私は谷山の言葉に甘えて指示を出すことにする。 「では屋敷内を徹底的に調べてください。犯人は犯行後、まだこのロッジを出ていないはずです。どこかに凶器があるはずだ」 「凶器ですね。わかりました」  谷山は早速部下たちに命じて、宿泊客たちの部屋から調べさせた。  で、それから約二時間が経過した。天下一が予期したとおり、凶器はどこからも見つからなかった。 「最も有名な凶器のトリックといえば、やはり氷の短剣でしょうね」管理人室でコーヒーを飲みながら天下一はいった。「あるいはドライアイスの短剣。時間が経過すれば溶けてなくなるという利点があります。今回の事件でも、まず考えねばならないのは、このトリックです」 「ドライアイスのセンはないな。ここへ来る前から準備しておくしかないわけだが、犯行まで保存しておくのが難しいだろう。部屋に冷蔵庫があるから氷なら作れるだろう」 「でも氷は溶けて水になりますからね、死体の衣服が濡れてしまいます」 「清一郎氏のガウンは濡れていなかった」と私はいった。「氷でもないわけだ」 「厄介なことになってきましたね。凶器はどこへ消えたか?」そういいながらも天下一は楽しそうである。 「ほかに凶器を隠すトリックとなると、どういうものがある?」 「ガラスの短刀というものがあります。水の中に投げ込めば、ちょっと見ただけでは見つからないそうです。ワイヤのついた短剣を弓のようなもので飛ばして刺殺し、その後ワイヤを引っ張って短剣を回収するというものもありました。遠隔殺人トリックですね。それから岩塩で作った弾丸で人を撃つというトリックもあります。被害者の体内に食い込んでから、岩塩は溶けて血液に混じるので、一見したところでは刺殺に見えるらしいです。ただこれは実行可能かどうか疑問があります。007の『美しき獲物たち』で、ポンドが弾丸の代わりに岩塩をこめたライフルを撃つシーンがあるんですが、やたら塩が飛び散るだけで、相手には大したダメージを与えられないんですよね。実際にも、あんなふうになっちゃうんじゃないのかなあ」  本格推理の探偵が、スパイ小説のキャラクターの名前を出したので、私はちょっと白けた。 「刃物にかぎらなければ、凶器のトリックというのは、かなりあるんだろう?」 「多いですね。機械的なトリックというのは、大体これに含まれるんじゃないでしょうか。ディクスン・カーが、やっぱり多いかな」 「題名は忘れたが」と前置きして、「食っちまうことによって、凶器を隠滅するというトリックもあったな」と私はいった。「食品が凶器になっていたわけだ」 「ああ、ありますね。代表作が外国と日本に一つずつ。どちらも巨匠と呼ばれる作家による短編で、オチまで一緒です。ただ、どんな食品を使ったかという点に、食文化の違いがあって面白い」 「この手のトリックは、まだまだ未来があると考えていいのかな」  私がいうと、天下一は浮かない顔で首を傾げた。 「どうでしょうか。たしかに小道具として新しいものを出してくることはできるでしょう。でもハイテク機械を使った複雑なトリックになると、却って驚きが少なくなるんじゃないですか」 「ああ、そうかもしれんなあ。リモコン操作できるナイフ、なんてものが出てきたら、興醒めだからなあ」 「逆転の発想から生まれるトリックというのが、僕たち探偵側としても挑み甲斐があるものですからね」 「やれやれ、文明の発達と共に、我々本格推理の住人も、生きにくくなるわけだなあ」  私が吐息を大きくついた時、ドアをノックする音がした。どうぞというと、谷山署長が入ってきた。 「皆さん、もうラウンジにお集まりです」 「あっ、そうですか」私は立ち上がり、天下一を見た。「さあ、行くかい」 「行きますか」と彼も腰を上げた。「名探偵による謎解きシーンなんてものは、これからどんどん減っていくでしょうから、がんばって盛り上げるとしましょう」 「さて」全員が見守る中、天下一は開口した。「まず考えねばならないのは、犯人がいかにして清一郎氏を殺害したのかということです。それが明らかになれば、おのずから犯人も判明することになるでしょう」 「じらさないで、早くいってよ」桃川好美が口を尖らせた。 「焦っちゃいけません」天下一は人差し指を小さく振った。「あなたの話によると、清一郎氏は時間を気にしていたそうですね」 「そうよ。何度も時計を見てたわ」 「それはつまり、清一郎氏が誰かと会う約束をしていたことを意味します。好美さんが眠ったのをたしかめてから、清一郎氏はその人物の部屋を訪ねたのです」 「誰の部屋だい」と宮本が訊く。  天下一は、まあまあ、となだめるような手つきをした。 「そこでどのようなやりとりがあったのかはわかりませんが、おそらく相手の人物は、最初から清一郎氏を殺すつもりだったのでしょう。隙を見て凶器を取り出し、彼の胸を一突きしたのです。死体を見たかぎりでは、たぶん即死ですね。でも犯人はそれでも納得しなかった。さらに第二、第三の凶器で、手と足を突き刺したのです」 「第二、第三だって?」私が口を挟んだ。「じゃあ犯人は、凶器を三本も用意していたのかね」 「そうです」 「なぜそんなことを」 「一本だけだと、もし一撃で仕留められなかった場合 いったん凶器を抜かなければなりません。そんなことをしたら血が溢れ出て、現場は血まみれになってしまうでしょう。それで予備のために、二本余分に凶器を準備しておいたのです」 「刃物を抜かなければ、あまり血は出ないという話、聞いたことがあります」町田がぽんと手を叩いた。「すると三本の凶器は、すべて死体に刺したままにしてあったのですか」 「そうです。その状態のまま犯人は、死体を部屋から運び出しました。そして吹き抜けの手すりから中庭に落としたのです」  おお、という声が一同から上がった。血みどろのシーンを想像したからか、町田泰子などは少し顔色を悪くしている。 「で、その凶器は?」と私は訊いた。「凶器はどうやって回収したのかね。いや回収だけじゃない、どうやって処分したんだ。それに君は大事なことを忘れている。四方八方に飛び散った血痕だ。凶器が刺さったままなら、ああいうことにはならないと思うが」  この質問に天下一はにやりとした。いよいよ本領発揮という顔つきだ。 「その二つの質問にお答えしましょう。まず凶器の回収はしていません。犯人は凶器をそのままにしておいたのです」 「そんなはずはない。現場には何もなかったぞ」 「そう見えただけです。じつは凶器はあったのです。形を変えてね」 「形を? どんなふうにだ」 「溶けたのです。犯人が用意したのは、氷の短剣だったんです」 「氷? ばかばかしい。それはありえないと、最初からいってるじゃないか。死体のガウンも周りの土も、全く滞れた形跡はなかった」 「これは失礼。氷といったのが間違いでした。ある液体を凍らせたものではありますが、それは水ではありません」 「水でなかったら、何なんだ」  すると天下一は、クックックツと笑った。 「たった今大河原さんがおっしゃったじゃないですか。現場には血が飛び散っていたと」 「なんだと」 「あれが凶器の正体だったのです」そういって彼は宿泊客たちのほうに向き直った。「犯人は血を凍らせ、それから作った短剣で清一郎氏を殺したのです。その短剣は犯人が中庭に死体を落とした時、衝撃で粉々に崩れて周りに飛び散りました。それが溶けて、まるで死体から吹き出したように見えたのです」  天下一の声がラウンジ中に響きわたった。客たちは全員呆然としている。やがて町田清二がいった。 「うーむ、そういうことだったのですか。なるほどそれなら筋が通っている」  それに触発されたように、皆が口を開いた。 「さすがは名探偵だ」 「大したもんだ」 「驚いちゃったわ」  いやそれほどでも、と天下一は少し顔を赤くした。 「ふん、私だって」と、ここで私は苦々しい顔をしていう。「そのぐらいのことは推理していたさ。しかし今回は君に花を持たせてやることにしたわけだ」  こういう負け惜しみをいうのも、このシリーズにおける私の役目である。だが内心では安堵している。どうやら今回も、我らが主役は無事に事件を解決したようだ。ここまで来れば、あとは犯人を当てるだけだから問題あるまい。  その時だった。所轄署の刑事が近寄ってきて、私にメモのようなものを渡した。刑事は困ったような顔をしていた。  私はメモを見た。そこにはこう書いてあった。 『死体を詳細に調べた結果、三箇所の傷はいずれも右大腿骨の骨折端によるものと判明』  私は眩暈《めまい》を感じた。  骨折端とはすなわち、折れた骨の先端という意味である。特に裂けるように折れた場合、その先端は刃物のように鋭くなる。三つの刺し傷はそれによるものだとメモには書かれているわけである。  どういうことだ――私は吹き抜けを見上げた。その瞬間、すべての謎が解けた。  町田清一郎は手すりから転落して死んだのだ。その際、足を骨折し、その骨折端が右太股の肉を破り、左掌を貫通した後、胸に突き刺さったというわけだ。  骨には筋肉がついているから、倒れた拍子に、元の位置に戻ったのだろう。凶器が見つからないはずだ。それは清一郎の身体の中にあったのだ。  こうした現象は、法医学の世界ではよく知られている。気づいて当然のことであった。  では清一郎は何者かに突き落とされたということか。  いや。  これは他殺でも何でもなく、清二郎が過って落ちただけかもしれない。吹き抜けの上がガラス張りになっているのは、星を見るためだと町田清二から聞かされたことがある。清一郎には何かお目当ての星があって、それを見ようと手すりから身体を乗り出して落ちたのかもしれない。桃川好美は、彼が時間を気にしていたといっていたが、それは星の見える時刻のことではなかったか。  さあえらいことになったぞ。いずれにしても天下一の『血の短剣』説は、とんでもない妄想ということになってしまう。 「では犯人が誰かを申し上げましょう」私の思いとは裏腹に、名探偵天下一大五郎が声を張り上げた。「犯人はあなたです」彼は宮本治を指差した。「あなたが清一郎氏を殺したのです」 「えーっ」といって、宮本はのけぞった。 「あなたは前の奥さんが病気になった時、清一郎氏に休暇を申し出ましたが、大事な取り引きがあるということで一蹴されました。奥さんはその日の昼間、あなたが会社にいる間に息をひきとりました。もし自分がそばにいたら助けられたのにと、あなたはそれ以来清一郎氏を恨んでいたのです」一体いつの間に調べてきたんだろうというようなことを天下一はいった。 「違う違う、俺じゃない」宮本は喚《わめ》いた。「たしかにそのことで社長を恨んでいたが、殺してなんかいない。信じてくれ」 「とぼけてもだめです。僕の目はごまかせない。薬品メーカーの技師をしているあなたなら、清一郎氏と同じタイプの血液を入手することも可能だったのです」 「そんなのでたらめだ。俺は犯人じゃない。何もやってない。やってないよお」ついに泣きだした。  犯人じゃないんだろうなあ、と私は思った。いや、犯人なんかはじめからいなかったのだ。  しかしこうなってしまった以上は仕方がない。彼に犯人役を引き受けてもらうことにしよう。なぜならこれは天下一が主役の話だからだ。彼が、『血の短剣』を使ったというのなら、そうなのだ。彼が、犯人は宮本だというなら、そうなってしまうのだ。 「うーむそうだったのか。いやあ、今度ばかりは君に出し抜かれたようだなあ」  私はお決まりの台詞をいい、手の中のメモをこっそり破ったのだった。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   エピローグ [#改ページ] 「警部、天下一さんが皆さんに集まってもらってくださいということです」  若い巡査に声をかけられ我に返った。私は村の唯一の派出所で、縁の欠けた茶碗を持ったまま、これまでに関わってきた事件のことを思い出しているところだったのだ。 「なに? あの探偵が何の用だ」 「さあ、どうも今回の事件の謎が解けたといっているらしいですが」  今回の事件とは、『蛇首村子守唄事件』と呼ばれているものである。 「謎が解けた? そんな馬鹿な。まあいい、素人の話を聞くのも一興だ。場所はどこだ」 「卍《まんじ》家の居間です」  いうまでもないが、卍家というのは村一番の旧家で大富豪である。未亡人はいないが、美人の娘ならいる。が、今回の犯人はこの娘ではない。この娘は読者をミスリードするための材料なのだ。  卍家に行くと、すでに事件の関係者が集まっていた。何十畳もある広い居間に、コの字を描くように腰を下ろしている。そして中央で立っている男が天下一大五郎だ。  いつも不満に思うことだが、この舞台設定をもう少し変えるわけにはいかないものだろうか。犯人はこの中の一人で、その者に罪を認めさせればいいだけだから、他の者は不要である。とはいえ、これがないと物足りないとおっしゃる読者も、少なくないのかもしれない。 「大河原警部、こちらにどうぞ」  天下一は私を見ると、自分のすぐ脇を掌で示した。手柄をいつも私に与えているわけだが、この男が私に対して横柄な言葉遣いをしたことはない。 「君はまた突拍子もない推理をしゃべって、我々を混乱させたりはしないだろうね」  あぐらをかきながら私はいう。「君はまた」などといっているが、天下一探偵がでたらめな推理を述べて、それで捜査が混乱したというようなことは一度もない。この台詞《せりふ》も我々の間で交わすことになっている、決まり文句のひとつだ。 「ええ、大丈夫だと思います」 「ふん、それならいいが」  私はいつものように鼻を鳴らし、腕を組む。だがもし注意深い読者ならば、このいつものしぐさに微妙な違いがあることに気づくはずだ。 「さて、皆さん」  天下一がいつものように切りだした。皆の顔に、さっと緊張の色が浮かぶ。それをじっくりと眺めてから彼は続けた。 「今回の事件はじつに難解でした。これほど私を悩ませた事件は過去にありません。鬼王寺の和尚《おしょう》はなぜ木魚を抱いて死んだのか、餅屋のお嬢さんが喉を詰まらせて死んだのは単なる事故なのか、そして一連の不可解な事件が子守唄通りに起こっているのは、偶然にすぎないのか」 「偶然のはずはねえ」  弥助という男が立ち上がった。「鬼王様の崇《たた》りだ。そうに違えねえ」  そうだそうだ、と何人かが声を合わせた。 「いえ、違います。これは崇りだと思わせた、じつに巧妙な殺人だったのです。私が調べれば調べるほど、犯人の冷静さと頭の良さが見えてくるのです。まず和尚が殺された事件ですが――」  ここからが天下一探偵の見せ場である。仕組まれたトリックを、次々に解いていく。ただこの時点での謎解きのコツは、真犯人の名前はまだ伏せておくという点だ。読者を出来るだけじらせるわけだ。一通りの説明が終わる。しかしまだ犯人の名前は出てこない。 「となると……犯人は一体誰なのかね」  卍家の当主、市の介翁が全員を見回していった。「今の話からすると、この中には該当する者はいないと思うのだが」 「いえ、それがいるのです、一人だけ」と天下一探偵はいう。「私も悩みました。そして最初の前提で大きな見落としをしていることに気づいたのです。事件の犯人は――」  彼は私を見て続ける。「あなたですね、大河原警部」一同はどよめき、次に重い沈黙が訪れる。  私は天下一の目を見つめ、無念そうに眉を寄せた後でこうべを垂れた。見苦しく反論したりはしない。天下一の推理が万全であることを誰よりも知る人間としては、潔く観念するしかないのだ。  私がうなだれている間に、彼は謎解きの仕上げをしていく。動機が、私が溺愛《できあい》する娘の命を守るためだったことも、名探偵は見抜いている。 「恐れいったよ。さすがは天下一君だ。やはり君には勝てんな」  顔を上げると、私は彼にいった。 「信じたくはなかったです。あなたと一緒に、もっと仕事をしたかったのに」  我々は見つめあい、固い握手を交わす。 「さあ、連れていってくれ」私は巡査にいった。若い警官はおどおどしながら、居間の襖《ふすま》を開けた。私は出ていきかけたところで、振り返った。 「残念だが、これで天下一シリーズも終わりだな」 「シリーズはまだまだ続きますよ」 「さあ、それはどうかな」  私はにやりと笑った。少しは続けられるかもしれないが、長くはない。何しろ、シリーズキャラクターという、もっとも意外な人物を犯人にしてしまったからだ。それに大きな声ではいえないが、こういう安直な方法で意外性を出そうとした作家は、遅かれ早かれいきづまるものなのだ。 「まだまだ続けますからね」  天下一が一人で叫んでいた。 [#改ページ] [#ページの左右中央]   最後の選択――名探偵のその後 [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから2字下げ] [#ここから太字] シリーズキャラクター(大河原警部)までも犯人にしてしまった今、あとはどんな意外性が残されているだろう? [#ここで太字終わり] [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  大型クルーザーは確実なペースで、その島に向かっていた。  その島、というのは日本海に浮かぶ、ある個人が所有している無人島である。その人物の名前は西野刑吾といって、日本を代表する超大金持ちであり、また変人であることでも有名だった。  その西野刑吾が、この無人島にある別荘でパーティを行うことを思いついた。しかしただのパーティではなさそうだ。その証拠に接待客はたったの十人である。そしてその人選がどのようにして行われたかは、今のところ不明だった。 「一体何を企んでいるんでしょうな。西野氏は」  背後から声がした。デッキに出ているのは僕だけなので、僕に話しかけてきたのであろうと思い、振り返った。中年の、四角い顔をした男が、にこにこと笑っていた。 「失礼。わたくし、こういう者です」  そういって男が差し出した名刺には、法律事務所の名が印刷されていた。男は二宮欽次という弁護士らしい。 「あ、僕は」といって、こちらもチェックの上着のポケットに手を入れた。だがそこに名刺など入っていないことは、僕が一番よく知っている。このところ金欠病で、名刺を作れないのだ。「しまった、きらしているらしい」 「いや、結構です」二宮は掌《てのひら》をこちらに向けた。「あなたのことはよく知っています。頭脳明晰、行動力抜群の名探偵、天下一大五郎さんでしょう」 「これはおそれいります」僕は頭を下げながら、博学多才というのが抜けているぞと心の中で呟いた。 「西野氏とは、どういうお知り合いで?」と二宮は尋ねてきた。 「知り合いというか、以前仕事を依頼されたことがあるんです。不可能犯罪に巻き込まれて、警察でも解決できないから、何とかしてもらえないかとね。もちろん謎は、僕が見事に解決しましたが」鼻の孔が思わず膨らんでしまうのは、僕が扱った事件の中でも、一、二を争う難事件だったからである。 「ほう。それは密室殺人か何かですか」 「まあそんなところです」 「ほほう」二宮は僕の顔を見つめた。「それはそれは」そしてにやにやした。いやな笑いだった。「大したものですな」 「あなたはどういう御関係で?」と逆に訊いてみた。  二宮はちょっと胸を反《そ》らせるようにした。 「まあ、あなたと似たようなものです。じつは西野氏の親戚が殺人事件に関わってしまいましてね。いやもっと端的にいうなら、容疑者にされてしまったのです」 「へえ」 「なんとか無実を証明してほしいというのが西野氏の依頼でした。私は事件を詳しく分析し、その人の無実を立証すべく法廷で闘いました。いえそれだけでなく、真犯人を暴くことにも成功しました。『義足殺人事件』という名称で、一時期話題になったこともありましたが、御記憶にありませんか」 「いやあ聞いたことがないなあ」 「そうですか」二宮は少しむっとしたようだ。「まあつまり、そういうことがあって以来、何かにつけ西野氏は私をあてにしてくれるようになったわけです」 「すごいですね」 「いやそれほどでも……ありますかな」そういって彼はまた胸を反らした。  我々がそんな話をしているうちにクルーザーは島に到着した。  客たちが全員上陸するのを見届けると、艇長はすぐにエンジンをかけ、クルーザーを島から離した。みるみる小さくなっていく船を、我々は岸から見送った。 「まるで置き去りにされたような気分ね」働く女性のステロタイプといった雰囲気の女が、腰に手をあてた格好でいった。栗色の髪が風になびいている。「これからどうすればいいのかしら」 「招待状に地図が書いてありました」長身で、やたら額の広い男が、パイプをくわえたままいった。「別荘までは徒歩で約十分です、ともね」 「迎えが誰も来ないのかなあ」カメラケースを肩に担いだ男が、きょろきょろした。 「来んようじゃな。年寄りを何だと思っとる」貧相な顔つきの爺さんがそういい、げほげほと咳をした。 「仕方がないわねえ。のんびり歩いていきましょうよ」おっとりした雰囲気の老婦人が、爺さんをなだめるようにいった。 「そうしましょう。文句いうより、歩いたほうが早い」痩せた中年男が、さっさと歩きだした。  そんなふうなわけで、別荘への道を歩きだしたわけだが、いったいこの連中は何者なんだろうなと僕は考えていた。どうやら全員がお互いのことを知らないようだ。  別荘は海に面した崖の上に建っていた。酒落たペンションのような建物を想像していたのだが、実物は素っ気ない立方体に過ぎなかった。レンガ造りに見えるが、たぶんそれを模したタイル張りなのだろう。何となく昔の刑務所を連想させるが、窓に鉄格子は入っていない。 「なにこれ、ムードのない建物ねえ」客の中では一番年少と思われる、女子大生風の娘がいった。  鉄柵の門は開かれていた。そして玄関扉には、こう書いた紙が張ってあった。 『ようこそ。そのままお入りください。鍵はあいています』  たしかに鍵はあいていた。我々は何となく譲り合いながら中に入った。  玄関ホールに入ると、すぐ前の両開きの扉が開放されていた。その先は食堂のようだ。大きなテーブルが中央に置かれている。  近づいてみると、円形だと思ったテーブルが九角形をしていることに気づいた。テーブルの上に紙が一枚置いてある。そこには部屋割りが記してあった。部屋は二階にあるようだ。各自に一つずつ部屋が与えられているらしい。 「じゃあとりあえず荷物でも置いてきますか」弁護士の二宮がそういって、そばの階段を上がり始めた。  この食堂は天井が吹き抜けになっており、階段の上には食堂を見下ろせる回廊があった。その回廊に沿って部屋が並んでいるというわけだ。  僕は自分に割り当てられた、たぶん北東の角にあたると思われる部屋に入った。部屋にはベッドと小さな机と椅子以外、何もなかった。窓からは海が見えた。  荷物を置き、僕は一階の食堂に戻った。他の客たちも揃いつつある。 「おかしいわね」キャリアウーマンが首を傾げた。「椅子が九つしかないわ」 「おっ、そういえばそうだ」 「変ね」  皆がそれぞれの顔を見合わせた。ここには九人が揃っていた。九角形のテーブルに九つの椅子なので、今のところはぴったりなのだが、このままでは一人余ることになる。 「ええと、誰がいないんだ」老人が見回した。 「あの人よ。丸い顔した太ったおじさん」女子大生風がいった。 「どうしたのかな。ちょっと見てこよう」二宮がいい、腰をあげた。すると僕もそうだが、全員が同じように立ち上がった。皆、同じ予感を抱いているらしい。  二宮がドアをノックした。しかし返事がないので彼はそのままドアを開けた。  丸顔の太った男は、ベッドの上で背中を刺されて死んでいた。  まず自己紹介しようということになった。その結果僕と二宮以外の人間は、以下のとおりであることが判明した。この小説での登場順だと思ってもらって、差し支えない。  三木《みき》ひろみ……女性記者  四条博之《しじょうひろゆき》……推理小説研究家  五島大介《ごとうだいすけ》……フリーライター  六田仁五郞《ろくだじんごろう》……暇な老人  七瀬《ななせ》トシ……暇な老婦人  八代真平《やしろしんぺい》……作家  九重美路菜《ここのえみろな》……女子大生  そして殺されていたのは十文字忠文《じゅんもんじただふみ》という神父だった。十文字のことは、三木ひろみや四条が、クルーザーの中で話をしたので知っていたらしい。 「西野氏が神父と知り合いだったとは意外だな。あの人は仏教徒だと思ったが」八代が首を捻《ひね》った。 「信仰とは関係ありません」と四条が答えた。「あの神父の話では、西野氏の友人がある殺人事件に巻き込まれた時、知恵を貸してあげて以来の知り合いだそうです」  えっ、という顔を全員が見せた。 「じゃあ僕と同じじゃないか」こういったのはフリーライターの五島大介だ。「僕もそういうふうにして西野氏と知り合ったんだ。思い出すなあ、茶臼山殺人事件。僕が乗り出さなきゃ、きっと迷宮入りだったろうなあ」 「お言葉ですけど、事件を解決したということなら、あたしだってそうですわ」三木ひろみが目をいからせた。「ある事件の取材を続けているうちに、矛盾点を発見して、それをきっかけに真犯人を暴いたことがあります」 「おっと、そういう話なら、私にも参加する資格がある。ある殺人事件について西野氏から相談を受け、現場をこの目で見ることもなく、与えられた情報だけで犯人を推理したことがあるからね。しかもその推理は見事に的中していた」作家の八代新平がいきまいた。 「あーらわたしなんか」と七瀬トシが口を挟んだ。「編み物をしながら話を聞いて、その日のうちに推理したことだってあるんですのよ」 「何をいっとる。わしなんか、バーで酒を一杯飲む間に、迷宮入りだった事件を解決したことだってあるんじゃぞ」これは六田仁五郎である。  やがて推理小説研究家の四条も、負けじとばかりに、百パーセント論理だけで真相を探りあてた思考機械ぶりを自慢し、九重美路菜は色気と行動力で犯罪組織を壊滅させた話を披露した。こうなると二宮も当然黙ってはいない。先程僕にした話を、ここでもう一度繰り返した。もちろん僕も自分の手柄を発表させてもらった。 「うーむどうやら」と八代が皆を見回していった。「ここに呼ばれているのは、いずれも殺人事件を解決したことのある人間らしい」 「推理小説でいえば、探偵役になった経験のある者、ということになるわね」三木ひろみがニヤニヤした。 「こいつは面白い。探偵役が十人か」と二宮。 「九人ですよ」五島が訂正した。「すでに一人は死んでいますからね」 「事件は早くも起きているということね」女子大生の九重美路菜が目を輝かせた。 「西野氏の魂胆が見えてきましたね」四条が、冷徹さを強調しようとするかのように、落ち着いた声でいった。「どうやら我々に推理合戦をやらせようとしているらしい」 「面白い。わしも最近は推理することがなくて退屈しておったところじゃ」 「わたくしもですわ。ほほほほは」  それから全員の視線が、空中で激しくぶつかりあった。  とりあえず夕食の支度をしようということになった。キッチンにもはり紙がしてあり、食料は冷蔵庫や倉庫にたっぷり入っているし、ワインも地下に置いてある旨が書いてあった。我々は特に食事係などは決めることなく、全員で準備をすることになった。といってもやはり活躍するのは、女性陣である。三木ひろみと七瀬トシが、てきぱきとメニューを決め、それに沿って各自に指示を出した。九重美路菜だけは料理が不得手な様子である。 「おかしいな」テーブルに食器を並べていた五島が呟いた。「皿が一枚足りないぞ」  そこにいた者全員が注目した。なるほどオードブル用の皿が八枚しかないようだ。 「スープ皿も足りないわ」三木ひろみがいった。 「スプーンもよ」と七瀬トシも声をあげる。 「コーヒーカップもそうだ」と八代。 「おい、みんなここに揃っているか」と二宮がいった。  全員が素早く各自の顔を見回した。一人足りなかった。 「推理小説の専門家がおらんようだ」六田老人も気づいたようだ。 「さっきワインを探してくるっていってたけど」  九重美路菜の言葉に、全員が地下室への階段に殺到した。  第二の死体は、地下のワイン倉で、首つり状態になっていた。  夕食は肉を適当に焼いたものと、生野菜にドレッシングをかけたサラダだけという簡単なものになった。ただしワインは豊富に揃っていたので、各自好きなボトルの栓を抜いていた。殺人がすでに二件起こっているのに、平然と夕食を口にするところは、全員さすがに探偵役の経験があるだけのことはある。 「さてと、神父と推理マニアがまず殺されたか。このことをどう考えればいいかな」六田老人が、ステーキをくちゃくちゃと咬《か》みながら呟いた。独り言を装っているが、無論周りに聞かせているのだろう。「一人目はナイフで、二人目は絞殺だ。二人目は首つりだったが、自殺のはずはないしな」  だが老人の独り言に応じる者はいない。誰もがすでに推理を巡らせているはずで、ライバルたちにヒントを明かすような愚かなことはすまいと決心しているのだろう。 「あの二人を殺したのは、作者としては正解だったと思うね」五島大介が、不意に小説世界を離れて発言した。ワインで少し酔っているようだが、芝居かもしれない。 「あら、どうしてですか」七瀬トシが訊いた。 「彼等が生きていたとしても、この先探偵役をすることはなかったでしょう。神父に推理マニア。一昔前の本格推理なら話は別だが、今やもう時代遅れだ」 「神父はともかく、推理小説の専門家を探偵役に据えるのは時代遅れかね」作家の八代が、異議ありという顔でいった。彼は推理小説も書くのかもしれない。  五島は大きく頷いた。「専門知識があるからといって、それを実務に応用できるとはかぎりませんからね。むしろ専門バカであることが多い。その結果何でも自分の分野に引き込んで処理しようとし、見当外れな推理を展開したりする」  なかなか辛辣《しんらつ》な意見だ。 「まあこれからは行動派の時代でしょう。自分の目と耳でどれだけ情報を掴《つか》めるか、そこに探偵の善し悪しが出るんじゃないですか」 「それはいえるわね」三木ひろみが五島に同調した。「頭で考えるだけの探偵の時代は終わりだと思うわ。フットワークがなければ通用しないということね。その点あたしみたいに、常に情報と接している人間は、探偵役に最適といえるんじゃないかしら」  さすがにフリーライターと新聞記者となれば、意見が一致するようだ。  しかし安楽椅子探偵組も負けてはいない。  六田老人が、歯の少ない口で、ふぉっふぉっふぉっと笑った。 「知恵のない者にかぎって、知恵を馬鹿にする。殺人事件の謎を解くとはすなわち人間の謎を解くことなり。となれば長年の人生経験から、人間とは何かを知っている人間こそ、探偵にふさわしいということになる。情報情報というが、真相を見破るのに必要な情報というのは、じつはほんのわずかで、しかも誰の目にも留まるところに存在しているものなんだ。偉大な探偵というのは、無駄に走り回ったりはせんのだよ」  こういってから老人は、同意を求めるように隣の七瀬トシを見た。今にも、「なあ婆さんや」という台詞《せりふ》が出てきそうな雰囲気だった。 「真相解明に人生経験が必要だというのは真理だと思いますわ」やはり婆さんは爺さんの味方をした。ところがここから先は違った。 「でも不十分な情報だけで推理するというのは罪悪です。わたくしは、そういうことはいたしません」  婆さんの裏切りにあって、六田老人は顔色を変えた。だが彼が何かいう前に、弁護士の二宮が訊いた。 「ほほう、七瀬さんは常に充分な情報を揃えているとおっしゃるのですか」揶揄《やゆ》した言い方だった。「自分の部屋で編み物をなさっているだけかと思いましたが」 「甥が警部でして」七瀬トシは勝ち誇ったように答えた。「事件のたびに、いろいろと情報を持ってきてくれますの。甥もわたくしのことを頼りにしているみたいで」 「そのパターンですか」二宮はげんなりした顔を作った。「推理作家が手っ取り早くシリーズキャラクターを作りたい時の常套手段ですな。友人が警官、家族が刑事、あるいは恋人や配偶者が捜査一課の警部といったところですか。こうすれば簡単に事件と関わることができるし、情報も得られるというわけだ。その便利な相棒たちは、警察の力ではどうしても解決できないのだと泣き言をいいながら、一般人に捜査上の秘密をべらべらべらべらとしゃべってしまう。どこにそんな警察官がいるのか、教えてほしいものですな。もちろん小説世界以外で、という意味ですが」  二宮の口撃に、七瀬トシは一瞬口元を歪めて黙り込んだが、すぐに反撃に出た。 「そりゃあ少し非現実的かもしれませんけど、わたくしは自分の推理を甥に話して聞かせるだけなんですから、まだマシだと思います。ひどいのは、自分の家族が警察の要職についているのをいいことに、それを水戸黄門の印籠みたいにふりかざして、刑事もどきの捜査をしている探偵役じゃないかしら」 「えっ、そんな人がいるの?」三木ひろみが目を吊り上がらせた。「そんな恥知らずが」 「いますよ。あなたの横に」  全員の視線が、三木ひろみの横にいる五島大介に集中した。 「いや、ちょっと待ってください。ははは、待ってくださいよ。たしかに僕には警視正の兄がいます。しかしですね、一応捜査も推理も単独で行います。だから警察権力を利用しているとか、そういうことは絶対にないわけです」五島は三木ひろみのほうを気にしながら弁解した。彼女に気があるのかもしれない。 「さあ、それはどうかな」煙草に火をつけ、八代がいう。「水戸黄門の印寵が出る瞬間を、一般視聴者は楽しみにしてるらしいけど、そのセンを狙っているんじゃないのかい」 「馬鹿な。そこまで単純じゃない」そういってから五島は、ふと何か思いついた顔でいった。「単純といえば、刑事の恋人とか何とかいって、素人娘が捜査にしゃしゃり出てくるパターン。あっちのほうが、日本のミステリの足を引っ張っているという点では罪が重いんじゃないですか」  これはどうやら九重美路菜のことをいっているらしい。 「ちょっと、それって、もしかしてあたしのこと?」案の定、美路菜がテーブルを叩いて立ち上がった。  だがその顔がいやに青ざめているのが気にかかった。おかしい、と僕は思った。  そして彼女の形のいい唇から反論が出ることはなかった。立ち上がった途端、彼女は顔を歪めて苦しみだしたのだ。そして全員が唖然とする中、彼女は絶命した。毒殺であることは明白だった。 「大変だっ、第三の殺人だぞ」八代が叫んだ。と同時に、全員が瞬時にして小説世界に戻った。  うわあああ、という声がした。見ると、六田老人までもが喉をかきむしって苦しんでいる。やがて彼は床に倒れ、数秒後には動かなくなった。  別荘に着いてから半日もしないうちに四人が殺されたのだから、もちろんこれは異常と呼ぶべき事態である。素人探偵たちはとりあえず、疑心暗鬼にかられていくという登場人物を演じることになった。ただ厄介なのは、全員が自分のことを探偵役だと信じて疑っていないことだ。だから誰も彼も、次は自分が殺されるのではないかという恐怖より、とにかく犯人を見破りたい思いで頭がいっぱいなのである。 「これまでの状況からして、『そして誰もいなくなった』のパターンであることは間違いないわね」三木ひろみが口火を切った。 「どうやらそうらしいね」と八代がいった。 「当然犯人はこの中にいるわけだ。そうでなきゃおかしい。外部犯の仕業なんてことになったら、読者が怒っちまう」 「でも作者は、どうやってオチをつけるつもりかしら。このパターンの作品となると、クリスティの作品を越えられないと思うんだけど」 「そこはそれ、きっと何か考えがあるんだろうさ」八代はそういって意味あり気に笑ったが、自分の推理を述べようとはしなかった。他の者も黙りこんでいる。 「それにしても」と二宮がいった。「作者があの女子大生を早々に殺したのは賢明だった。本格推理の舞台には、やや場違いだったからね。女子大生や女子高生を探偵役に据え、軽い推理小説に仕上げて女性読者を獲得しようというのは、少し前に流行った手法だよ」 「ノベルスとかいう判型の本に多かったですわね」七瀬トシが頷いていう。 「まあそれも読者層の開拓という意味では、貢献度も低くはなかったんだけど、あまり商売根性が見え見えになると白けてしまう。今、そんな本を書いたって、読者はついてこないと思うね」二宮が自信たっぷりに断言した。 「我々の作者も、そこまで愚かではないということらしい」八代も笑った。  死人に口なしというが、この場にいない者の悪口となると意見が一致するらしい。 「ノベルスというと」二宮が周りを見回した。「フリーライターの彼がいないようだが」 「あらほんとだわ」  三木ひろみがいった時、銃声が轟《とどろ》いた。全員が椅子から飛び上がった。 「バスルームのほうだ」まず二宮が駆け出した。  バスルームの脱衣室では、五島大介が額から血を出して倒れていた。 「やれやれ」と二宮はいった。「観光名所殺人事件の専門家も、今回は脇役どまりということらしい」 「銃声がした時、全員テーブルについていたはずよね」三木ひろみがいう。  だからこの中に犯人はいないのだと主張したいのかもしれないが、テープレコーダーを使えば、簡単にできるトリックだ。 「ところで婆さんが来てないな」二宮が後ろを振り返った。「おや、作家もいない」 「やばいな」 「見にいきましょう」  戻ってみると、七瀬トシはテーブルに突っ伏した格好で死んでいた。首の後ろにアイスピックが刺さっていた。そして八代はトイレの横で倒れていた。手に吸いかけの煙草が握られている。 「毒が仕込まれていたようですね」 「なるほど」二宮は額いた。「八代が殺されるのは、もう少し後かと思ったが」 「僕には何となくわかりますね。推理作家を探偵役に据えるのは、作家としては気がひけるものなんです。推理作家なんてものが、じつは現実の事件についてはからっきし推理力を持たないというのは、本人が一番よく知っていますからね」 「それにしても、あっという間に三人だけになっちゃったわね」三木ひろみがいう。「妥当な三人に」 「さあ果して妥当といえるかどうか。社会派推理ならともかく、本格の世界で新聞記者が探偵役というのは、あまり聞きませんからね」 「あら」三木ひろみが口元を引き締めた。「そういうことを、法廷ミステリの世界から迷いこんできた人にいってほしくありませんわ」  二宮がそれに対して何かいおうとしたまさにその時、部屋中が真っ暗になった。 「きゃっ」 「停電だ」  さらに銃声がたてつづけに二回。  電気が消えていたのは、ほんの一分程度だった。再び部屋に明かりがともった。  弁護士と女性記者の射殺死体が横たわっていた。  そして僕の目の前に、男が一人立っていた。 「犯人はあなただったというわけですか」僕は推理小説研究家に向かっていった。  すると四条はこちらを見て、小さく首を振った。その顔には何ともいえぬ表情がはりついていた。笑ってはいるのだが、その顔から感じられるのは深い悲しみだけなのだ。 「私ではないよ、天下一君」と彼はいった。「この局面で、私が犯人であるはずがないじゃないか」 「なぜですか。今ここに、こうして僕の前に立っているのが、何よりの証拠でしょう。あなたは二人目の犠牲者として、ワイン倉で殺されていたはずだ。ところがこうして僕の目の前にいる。つまりあなたは殺されたふりをしていた。なぜか。それはあなたが犯人だったからです」  ところが彼は僕の話の途中から、かぶりを振り始めていた。 「私は殺されたふりなんかしていないよ。私はこれから殺されるんだ」そういって彼はパイプを取り出し、火をつけた。薄紫色の煙が彼の口から吐き出された。「君によって殺されるわけだ」  彼の言葉に、僕は吹き出した。 「何をいってるんです。なぜ僕があなたを殺すんですか」  だが彼は冗談をいっているのではなさそうだった。静かに口を開いた。 「君が犯人だからだよ」 「何をいってるんです。そんなこと、あるはずがないじゃないですか」 「いや、君が犯人なんだよ。その理由を、君がたった今いった内容をそっくりお返しすることで説明しよう。君は殺されたはずなのに、今ここにいる。それは君が犯人だからだ」 「馬鹿馬鹿しい。僕がいつ殺されたというんですか」 「それも君がいったじゃないか。二番目に、地下のワイン倉で、だよ」 「あそこで殺されたことになっているのは、あなたでしょう」 「いや、私じゃない。君なんだ。おかしいと思うなら、あの部分をもう一度読み直してみたまえ」  僕は小説世界を遡《さかのぼ》り、ワイン倉で死体が見つかる部分を再読した。 「どうかね」と四条はいった。「私の名前など、一度も出ていないだろう」 「でも推理小説の専門家と……」 「たしかに私は推理小説研究家だ。しかし専門家ではない。専門家といえば、天下一君、君以外にいないじゃないか」 「そんな馬鹿な」 「ついでに他の部分も再読してみたまえ。君は一度も発言していないし、皆と同席していることを示す記述もない。早々に殺されたことになっている君は、密かに彼等の様子を窺っていただけなのだよ」 「それをいうなら」僕は四条の鼻を指差した。「あなただって同じじゃないですか。あなたも発言していないし、同席していた証《あかし》もない。推理小説研究家を専門家と呼んだって、間違いとはいいきれない」  すると四条は苦笑して頷いた。そしてまたパイプを吸った。 「じつをいうとそのとおりだよ。今この時点では、どちらが犯人になってもかまわないのだ。どちらにしても筋は通る」 「だったらあなたに犯人になってもらわなきゃ仕方ありませんね。何しろ僕は探偵ですから、しかもシリーズキャラクターの」 「問題はそこだ」四条は真顔に戻った。「君がシリーズ探偵であることが、今回の物語を歪ませている最大の原因なんだ」 「歪ませている?」 「そうだ。次々に人が殺されていく事件にもかかわらず、さっぱりサスペンスが盛り上がらず、怖さもない。それは君がこの小説のシリーズ探偵だからだ。他の小説で探偵役をしそうな人間を、いくらたくさん出してきても、やっぱり君が主人公であることが約束事なんだ。読者は、君だけは犯人ではなく、しかも殺されることもないと知っている。おまけに、最後に謎を解くのが君であることも先刻承知だ。こんな状態を正常だと思うのかい。小説の真の面白さとは、先がどうなるかわからない、というところにあるんじゃないのか」 「それはよくいわれることですけど、そういう面白さを犠牲にしても、読者の要望という点から考えて、シリーズ探偵というのは必要なんじゃないですか」 「読者の要望が強いことは認めるよ。しかし時と場合による。無理やりにシリーズ探偵を出そうとしたばかりに、すべてがぶちこわしになっている作品というのを、私はいくつも知っている。そしてその一つが、今回の物語だ。はっきりいおう。今回にかぎっていえば、君は不要なんだ。不要な人物だったんだ」 「不要……」  頭の奥で、太鼓のような音が聞こえてきた。それは僕自身の心臓の鼓動だった。 「推理小説研究家という肩書は捨てて、読者代表としていわせてもらうよ」四条は静かにいった。「この作品を救う方法は一つしかない。シリーズ探偵が殺されたり、犯人だったりするはずがないという読者の思い込みを、根底から崩すしかないんだ。そのためには君が犯人であるしかない。そう思わないか」  僕は返す言葉が思いつかなかった。頭の中が混乱していた。  不要な人物? この僕が? 名探偵天下一シリーズの主人公が? 「あとは君に任せたよ」四条がいった。  その直後、彼は激しく苦しみ始めた。持っていたパイプを落とし、喉をかきむしった。そして彼は倒れた。白目を剥《む》いていた。口からは泡が吹き出ていた。  僕はパイプを拾った。そこに毒が仕込まれていた、という設定のようだ。  仕込んだのは僕、ということになるのだろうか。  その時だった。僕の胸のあたりに違和感が生じた。いや正確にいうなら、上着の内ポケットのあたりだ。  僕はそこに手を突っ込んだ。手に冷たく固い感触があった。それを握り、ポケットから出した。右手に握られていたのは、黒光りした拳銃だった。  なぜこんなものを僕が持っているのだ。これで僕は何をしようとしているのだ。  自問しながらも僕は手を動かしていた。銃口をこめかみに当て、引き金に指をかけた。  ここで僕は引き金を引くべきなのか。  そうすれば話は完成するのか。  そうすれば本格推理は救われるのか。  どうなんだろう。  どうなんだろう。 [#改ページ]   解 説 [#地付き]村上貴史         一  一九八五年に青春本格推理小説『放課後』で第三一回江戸川乱歩賞を受賞して日本推理小説界に登場した東野圭五。彼は本格推理小説ばかりでなく、サスペンスやユーモア、そしてSF的手法を用いた実験的小説まで、様々なジャンルで傑作を発表し続けてきたが、なぜか乱歩賞以外の賞とは無縁であった。推理作家協会賞には五回六作もノミネートされながら受賞を逃し、吉川英治文学新人賞についても五回の落選を経験している(注1)。その東野圭吾が、一九九九年、ついに『秘密』で推理作家協会賞を射止めた。娘の身体に妻の意識が宿るという異常な状況に陥った夫婦のある決断を描いたこの小説を東野の非本格推理小説としての代表作とするならば、本格推理小説としての代表作が本書『名探偵の掟』である。そこで、この代表作がいよいよ文庫化されるのをよい機会として、本書を手掛かりに東野圭吾の本格推理小説作家としての側面を読み解いてみよう(注2)。      二  本格推理小説の世界では、数々の約束事が作者と読者との間に存在する。例えば名探偵であり、ボンクラな警察である。あるいはダイイングメッセージや、密室殺人、童謡殺人など。それぞれの役割は暗黙のうちに定められており、それがいかに意識的には不自然なものであっても、裸の王様を裸だと指摘するようなことは慎まれている。本書はそれをふまえ、そうした本格推理小説の約束事を逆手にとり、鮮やかに「笑って」みせた作品である。この東野の試みは読者の熱烈な歓迎を受けた(注3)。ともすれば、この種の小説は単なる悪ふざけやあるいは定型に対する冷笑に終わってしまいがちだが、こうした支持を得たのは、「笑い」の奥にある東野の本格推理に対する熱意と理解が読者に伝わったからであろうし、また、本格推理小説に慣れていればいるほど意外な結末が各編に用意されている点も評価されたからであろう。そういう意味で、本書は読者の「本格観」を問い直す作品なのだ。この作品を読んで単に笑うのか、それとも笑いの奥に痛々しさや怒りを感じるかでその人の「本格観」がわかるという、踏み絵的な存在なのである。  例えば、本格推理小説の代表的テーマである密室について、「トリックの王様」とサブタイトルの付された第一話「密室宣言」では、こんなセリフが書かれている。 [#ここから2字下げ] だいたいトリックで読者の気をひこうという考えが時代遅れよ。密室の謎ですって? ふふん、陳腐すぎて笑う気にもなれないわ。 [#ここで字下げ終わり]  また、「凶器の話」では、容疑者に関してこんな文章も登場している。 [#ここから2字下げ] 残りのABCは、明らかに作者がミスリードのために出してきた、本筋とは関係のない人物である。そのことが読者にさえも見え見えという、いないほうがましな登場人物だが、客があまりに少ないのも不自然だろうということで作者が出してきたに違いない。そんな程度だからわざわざ名前で呼ぶ必要もないので、アルファベットで済ませてしまうわけである。 [#ここで字下げ終わり]  これらを、ストレートにギャグとして受け取るのはあまりに安直といえよう。トリックや密室さえ出せばよい、目くらましのために頭数さえそろえておけばよい、といった程度の覚悟で書かれている推理小説への批判を読みとるべきではなかろうか。本格推理の約束事の上に安住し、無批判にそのルールに従い、また、そのルールに甘えている作品の安直さを糾弾する文句は、無論これらだけではない。「意外な犯人」「最後の一言」「切断の理由」「殺すなら今」「アンフェアの見本」「禁句」でも容易に見出すことが出来る。作中で天下一と大河原が名探偵と凡警部という役柄を脱ぎ捨てて交わす会話など、その大部分はこうした安直さへの批判と考えることが出来よう。  その一方で、東野は読者に対してもきびしい目を向けている。なかでも象徴的なのが「意外な犯人」の一節。 [#ここから2字下げ] これは犯人当て小説である。では読者がメモを片手に読めば犯人がわかるのかというと必ずしもそうではなく、小説中の手掛かりだけでは、どう逆立ちしても真相を解明することなど不可能というのが、この種の小説の実態でもある。じつはそれでもいいのだ。というのは、作品中の探偵のように論理的に犯人を当てようとする読者など、皆無に等しいからである。 [#ここで字下げ終わり]  作者が示してくれる解決をただぼんやりと口を開けて受け身で待つ読者への、痛烈な皮肉である。つまり、東野圭吾は、本書で安直な作者と安直な読者の双方を批判しているということである。その批判は、「笑い」という衣にくるまれてはいるものの、矛先は決して鈍くはない。      三  だが、東野圭吾は、単に批判しているだけではない。前節で述べた甘えを作者と読者から奪い去る手法を考案し、そして実践してもいるのだ。それが、本書と同じく一九九六年にノベルスとして、一九九九年講談社文庫として刊行された『どちらかが彼女を殺した』である。  ご存じの方も多いだろうが、この作品で東野圭吾は「謎解き部分を書かない」という手法を使っている(注4)。もちろんこれはリドル・ストーリーなどではなく、本格推理小説であるため論理的に導かれる真相が存在する。しかしながら、著者が謎解き場面を省略したため、読者としては、真相を知るためには否が応でも作中の手掛かりをもとに推理しなければならない。つまり、名探偵の謎解きに甘えるなんてことは出来なくなるわけだ。その一方で、作者の側では、最終ページまでに必要かつ十分な手掛かりを提示しておかねばならない。普通の本格推理小説であれば、たとえ伏線が不十分であったり別の人物にも犯行の可能性が残っていたりしても、最後に名探偵が登場して「真相はこうでした。手掛かりはこことここにあったのです」と言えば、作中人物は納得してくれるし、読者も「まあ、そんなもんなんだろうな」と思ってくれる。だが、『どちらかが~』にはその謎解きがないため、そうした安直な決着方法を作者は使えないのである(注5)。また、この作品において東野は、容疑者を男女それぞれ一人に絞り込んで読者に提示している。先にも述べたように、ABCで済むような人物は予め排除してあるわけだ。さらに、事件の外見も地味であり、密室やバラバラ殺人のようにケレン味のあるものではない。ましてや、驚天動地の大トリックなどというものとは全く無縁の作品である。「トリックで読者の気をひこう」ともしていないし、「密室」などという陳腐な謎にも頼っていないのだ。  つまり、東野圭吾は『どちらかが彼女を殺した』という作品を用いて、『名探偵の掟』で行った批判に対する回答を自ら示してみせたのである。そういう意味で、東野圭吾の本格推理小説を考える場貪『どちらかが彼女を殺した』と『名探偵の掟』は対にしてとらえるべき作品といえよう。  両者の関連を示すセリフは、「アリバイ宣言」中にも存在する。 [#ここから2字下げ] 『アリバイ崩しもの』には、犯人を当てるとか、動機を推理するといった楽しみが少ないでしょ。あれがどうもね。趣味に合わないというか……。 [#ここで字下げ終わり] 『どちらかが彼女を殺した』は、もちろん犯人当て小説。東野圭吾は、彼が理想とするスタイルの本格推理小説で、自分が行った批判と相対したのである。  この「アリバイ宣言」のセリフからは、東野のもう一つの趣味も見えてくる。それは「動機」である。デビュー作の『放課後』でも特徴的な動機を描いていた東野圭吾だが、一九九六年には、動機という問題を徹底的に追究した『悪意』という作品を発表している。犯人は誰かという興味ではなく、その人物が何故罪を犯したのかという問題が、長篇小説全体を通して深く深く掘り下げられていくのである(注6)。  本格推理小説作家としての東野圭吾にとって、『名探偵の掟』『どちらかが彼女を殺した』『悪意』を刊行した一九九六年は、一つの大きな節目であった。この年以降、彼が刊行した本格推理小説の新作は、本校執筆時点では二冊であるが、いずれも安直さを徹底的に排除した造りとなっている。  現時点での最新刊『私が彼を殺した』は、『どちらかが彼女を殺した』の姉妹編にあたる作品である。『どちらか~』が男女二人の容疑者であったのに対し、こちらの作品は容疑者が三人いる点が、まず大きな相違。さらに、それぞれの容疑者がすべて「自分が殺した」と言っている点も特徴といえよう。それでありながら、きちんとした犯人当てとなっていることはもちろんである。読者は再び頭を悩ませることになる。  一方、一九九八年に刊行された短篇集『探偵ガリレオ』は、「どうやって犯罪を行ったか」という点に徹底的にこだわった作品である。今日の本格推理小説の世界では、機械的トリックや物理的トリックなどと言われるものは、あまり喜ばれなくなってきている。そういう現代において、東野圭吾は敢えてその種のトリックを作品の中核に据えてみせたのだ。いうなれば、『どちらか~』や『私~』でフーダニットに徹し、『悪意』でホワイダニットをとことん追究した東野圭吾は、この『探偵ガリレオ』でハウダニット(注7)を極めてみせたのである。明かされる真相はすべて一般人の常識外にある知識を活用したものであるが、現代のテクノロジーですべて実行可能というのが、この作品の最大の特徴である。理系の知識をふんだんに用いたとんでもない凶器やトリックを作中で見事に活かしきり、「どうやったか」という読者の興味を満足させ、そして納得させた手腕には敬服するしかない。作家東野圭吾の実力があってこそなしえた偉業といえよう。  ちなみに、『名探偵の掟』の「凶器の話」には、こんな会話が登場している。 [#ここから2字下げ] でもハイテク機械を使った複雑なトリックになると、却って驚きが少なくなるんじゃないですか。(中略)逆転の発想から生まれるトリックというのが、僕たち探偵側としても挑み甲斐があるものですからね。 やれやれ、文明の発達と共に、我々本格推理の住人も、生きにくくなるわけだなあ。 [#ここで字下げ終わり]  こうしたぼやきに対し、『探偵ガリレオ』が明確な回答となっていることは言うまでもない。      四  さて、一九九六年を節目としてとらえ、それ以降の作品について整理してみたわけだが、実をいうと九六年だけに着目するのはあまりに表面的である。理由はごく単純で、本書のプロローグ(そしてエピローグ)である「脇役の憂鬱」が小説新潮に発表されたのが一九九〇年だからである。この年を起点として、一九九六年に至る年月を、東野圭吾が自身の本格推理小説のあり方について、様々な考察と創造を重ねてきた時期としてとらえるのがよかろう。そうすれば、『名探偵の綻』の各編と相前後するように刊行されてきた『仮面山荘殺人事件』、『回廊亭の殺人』、『ある閉ざされた雪の山荘で』といった本格推理小説群において、東野圭吾が本格の定型を一ひねりした理由がよく見えてくる。つまり、これらの作品も『どちらかが彼女を殺した』同様、安直な意識が横行する本格推理小説界への、東野流の問題提起ととらえることができるのである。  例えば、ダイイングメッセージの登場する『回廊事の殺人』は一九九一年に刊行されているが、その二年後の九三年には、「最後の一言」のなかでダイイングメッセージについてこんな風に記している。 [#ここから2字下げ] 作者にしてみれば、簡単に謎めいた雰囲気を作れるし、サスペンスを盛り上げる効果もあって便利なんだろうが、大抵の場合、ストーリーが不自然になっちまうんだよなあ。 どうしてわざわざ暗号めいたものにするんですかね。犯人の名前をずばり書き残せばいいじゃないですか。 [#ここで字下げ終わり] 『回廊亭の殺人』は、ダイイングメッセージが中心の作品ではないが、勿論、使い方には工夫が凝らされており、天下一や大河原が示したこういう批判に耐えられるものとなっている。いうなれば、自ら模範解答を示した上で、約束事を安直に使う姿勢を批判してみせたわけだ。  また、題名そのものが本格推理小説の約束事のような『ある閉ざされた雪の山荘で』(一九九二年)もそのパターンである。 [#ここから2字下げ] もうちょっと工夫できないものか。いつもいつも大雪で山荘が孤立したり、嵐で孤島の別荘が孤立したりするのでは、読者の皆さんも飽きてくると思うのである。登場人物だって、いい加減うんざりしてくる。そもそも舞台を孤立させる理由はどこにあるのだろう? 孤立させないと、どういう点がまずいのだろう? だいたい犯人はなぜこんな場所を選ぶんだろうな。『屋敷もの』なんかをよむと、いつも思うことだが、町中で通り魔的に殺す方が、よっぽど捕まる可能性が低いんじゃないか。 [#ここで字下げ終わり]  一九九三年の「屋敷を孤立させる理由」では、こんな調子で批判が行われているが、『ある閉ざされた雪の山荘で』では、孤立させる理由や犯人がそういう場所を選んだ理由が十分考え抜かれており、読者にも十分納得できるよう、きちんと説明されている。 『仮面山荘殺人事件』も含め、こうした意欲的な試みと、天下一もので示した批判との両面から本格推理小説を考えに考え抜いた結果が、一九九六年に花開いたものと思われる。      五  では、なぜ一九九〇年にいたって、東野はこうした問題意識を世に示し始めたのだろうか。一九八六年の『白馬山荘殺人事件』では、「密室だとか暗号だとかの、いわゆる古典的な小道具が大好きで、たとえ時代遅れだといわれようとも、こだわり続けたいと思っております」とそうした約束事への好みを表明していた彼が、何故九〇年には「脇役の憂鬱」を書かねばならない状況にまでなっていたのであろうか。おそらくは、『十字屋敷のピエロ』という、一九八七年に綾辻行人が先駆者となって切り開いた「館もの」のスタイルをとった作品が一つの鍵となろう。時系列順に見ると、この作品は、綾辻以降の「館ものフォロワー」としては、八八年の歌野晶午『長い家の殺人』に続く位置にある。本質的には、館の構造を利用したトリックに依存した作品というより、むしろピエロの人形の視点を巧みに利用した衝撃作として評価されるべき作品であり、また、『ある閉ざされた~』における法月綸太郎の解説によれば、そもそも綾辻行人のデビューとほぼ同時期に完成していた作品なのだが、残念なことに、その後やってきた館ラッシュ(注8)のなかで、館ものの一つとして埋もれてしまった。  ここで、少々唐突だが、「密室宣言」に登場するセリフを紹介する。 [#ここから2字下げ] もういいじゃないか今日び誰もこんなもの喜んだりせんぞ。(中略)我々脇役は驚いた振りをする。本当は少しも驚いていない。同じ手品を何度も何度も何度も何度も見せられている気分である。違うのは種明かしだけだ。そして種明かしが違っても、驚きには繋がらない。美女が空中に浮かぶという手品を、種が違うからといっていくつも見せられたって飽きるだけである。ところが『密室』は性懲りもなく出てくる。いったいなぜなんだろうか。私は機会があれば読者の皆さんに伺ってみたいと思っている。あなた、本当に密室殺人事件なんか面白いんですかい。 [#ここで字下げ終わり]  この「密室」を「館もの」に置き換え、それを当時の東野圭吾の心境と考えてみたい。というのも、『十字屋敷のピエロ』は、ノベルスで刊行された段階では「本格推理シリーズ驚愕の第一弾」とされていたにもかかわらず、現在に至るまで続編が刊行されずにいるからである。これは東野圭吾が「館もの」(正確に言えば、館フォロワー的なもの)に象徴される本格推理小説に別れを告げたことを意味しているようにとれる。そのかわりに、この年の東野は『鳥人計画』で「なぜジャンパーの飛距離が急激に伸びたのか」という魅惑的な謎を提示することに成功し、また、『眠りの森』で登場人物の心の中にしっかりと踏み込み、しかも本格推理小説として完成度の高い作品を世に送り出すことに成功してみせた。つまり、 『十字屋敷~』のように古典的なスタイルとはまた違ったスタイルで本格推理小説を描いてみせたのである(注9)。そうした意識の変化は、九〇年に刊行された『宿命』の「著者のことば」に顕著にあらわれている。 [#ここから2字下げ] 犯人は誰か、どういうトリックか――手品を駆使したそういう謎もいいけれど、もっと別のタイプの意外性を創造したいと思いました (以降略) [#ここで字下げ終わり]  こうした考えが心に芽生え始めていた東野にとって、『十字屋敷のピエロ』をシリーズとして書き続けることは、古典的な謎と館のなかで、「読者ニーズに応える」(「アリバイ宣言」及び「最後の選択」)という口実のもと、緩やかに朽ちていくことを意味していたと思われる。それ故に、東野はシリーズを中断し、新たな方向を目指し始めたのではないだろうか。そして、それ故に「密室宣言」で、デビュー作『放課後』と同じく、心張り棒による密室を扱ったのではなかろうか。  九〇年以降、東野圭吾は新たな方向で着実に実績を重ね、九六年の三作、更には『探偵ガリレオ』や『私が彼を殺した』と、彼ならではの新鮮で魅力的な作品を次々と世に送りだしてきた。こうした方向転換に成功したのは、東野圭吾が本格推理小説に求めるものが、古典的要素ではなく、「推理」の要素であったと考えれば不思議ではない。「推理」にこだわっているというのは、彼が「本格ミステリ」ではなく、「本格推理」あるいは「推理小説」という言葉を好んで使っていることからも明らかである(注10)。つまり、東野圭吾にとって作品の軸として重要なのは推理であって、密室や暗号ではないのである。推理を伴わない密室小説や、暗号小説などは、東野が理想とする本格推理小説ではないのだ。  そうであるが故に――  読者としては期待してしまうのである。『秘密』の著者でもあり、本格推理小説というものを徹底的に考え抜いた東野圭吾が、「推理する」という要素をふんだんに取り込んだ上で『十字屋敷のピエロ』の続編を発表してくれることを。古典とモダンが極めて密に必然性をもって融合した本格推理小説を発表してくれることを。  そのときこそ、日本の本格推理小説にとって幸福で、そして刺激的な新世紀が訪れるに違いない。本書の姉妹編である『名探偵の呪縛』(注11)の最後の一文を読むと、そうした思いは一層深くなる。 [#地付き]一九九九年六月    [#ここから2字下げ、折り返して6字下げ] 注1……このあたりのエピソードは、『IN☆POCKET』の一九九九年五月号や一九九六年八月号に詳しい。 注2……それ故に、『変身』『分身』『パラレルワールド・ラブストーリー』などといった大好きな作品群については触れずにおく。 注3……その年の「このミステリーがすごい!」では三位、「週刊文春傑作ミステリー・ベスト10」では八位に入っている。ちなみに、「このミス」で東野圭吾がベスト10に入ったのは、これが初めて。文春のほうでは、処女作の『放課後』で一位を獲得している。この手の順位を作品の出来映えの評価とするわけではないが、支持を得たことの目安として記しておく。また、本書がこうした支持を得た原因の一つとして、本書の本質を「本格推理の自虐趣味が(おかし)の領域に行き着いた」と巧みに帯で読者に語ってみせた北村薫の役割も忘れることは出来ない。 注4……その匙加減の調節は非常に大変だったようであり、「どんでん返しを用意した小説のほうが楽だなと初めて思った」と「著者のことば」で述べている。なお、ダ・ヴィンチのラジオ放送(ダ・ヴィンチ ザ・ノイズ・ライブラリー一九九九年二月放送)に出演した東野圭吾は、他の作家にもこの手法を用いた作品を書いて欲しいと言っている。二階堂黎人の大長篇『人狼城の恐怖』のあとがきによれば、この作品の前半二冊が出た段階で、パソコン通信のニフティサーブにおいて会員による謎解きが試みられたというから、読者に受け入れる土壌はあるのではないかと思うのだが。 注5……それでもまだ甘えん坊が多いのか、文庫版の『どちらかが彼女を殺した』においては、西上心太氏による懇切丁寧な解説が付け加えられている。ただし、袋とじになっているので、ノベルスで読んだ人が文庫の解説だけを立ち読みすることは出来ない。悪しからず。 注6……『どちらかが彼女を殺した』と『悪意』で探偵役をつとめるのは、練馬署の加賀刑事。東野圭吾が生んだ数少ないシリーズキャラクターの一人である。シリーズキャラクターとしては、他に本書の天下一大五郎と『浪花少年探偵団』のしのぶセンセが有名。なお、シリーズキャラクターに対する東野圭吾の考え方は、本書の某作で明らかにされている。 注7……念のため書いておくと、フーダニットは誰がやったか、ホワイダニットは何故やったか、ハウダニットは如何にやったかを謎の中心とした推理小説を指す用語。 注8……例えば、一九八九年で言えば、今邑彩『卍の殺人』、我孫子武丸『8の殺人』、斎藤肇『思いがけないアンコール』など。片っ端から新刊で読んだ記憶があるが、それぞれの工夫は感じられたものの、島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』や、一連の綾辻の館ものを超えるような巨大なインパクトは受けなかった。ちなみに、この年の綾辻行人は『人形館の殺人』の一作のみ。 注9……八〇年代の東野圭吾を理解する上では、青春本格推理小説という側面からの分析も必要である。青春ものという要素と本格推理との関係や、青春ものの要素と『宿命』『パラレルワールド・ラブストーリー』、そして『秘密』などの関係をも考えてみるべきだが、紙幅の関係で今回は見送る。 注10……それ故、この解説でもミステリという言葉で東野の作品を紹介することは避けてきた。 注11……これまた一九九六年の作品。ちなみにこの年には『毒笑小説』というブラック・ユーモア集も刊行されている。同書に収録された「本格推理関連グッズ鑑定ショー」は、天下一ものの外伝として要注目(心張り棒という観点からは、『放課後』からの流れも見えてくる)。ただし、本書を読了後に読むこと。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ●本書は一九九六年二月小社より単行本として、一九九八年四月小社ノベルスとして刊行されました。 [#ここで字下げ終わり]  初出誌[#「初出誌」はゴシック体]  プロローグ「小説新潮」1990年10月号(「脇役の憂鬱」前半部を改題)  密室宣言「小説新潮」1991年6月号  意外な犯人「小説新潮」1992年6月号  屋敷を孤立させる理由「IN・POCKET」1993年2月号  最後の二言「IN・POCKET」1993年7月号  アリバイ宣言「臨時増刊小説現代」1993年8月号  『花のOL場けむり温泉殺人事件』論「臨時増刊小説現代」1993年11月号  切断の理由「小説現代四月増刊号メフィスト」1994年  トリックの正体「小説現代八月増刊号イメフィスト」1994年  殺すなら今「IN・POCKET」1994年10月号  アンフェアの見本「小説現代十一月増刊号メフィスト」1994年  禁句「IN・POCKET」1995年3月号  凶器の話「IN・POCKET」1995年7月号  エピローグ「小説新潮」1990年10月号(「脇役の憂鬱」後半部を改題)  最後の選択「小説現代八月増刊号メフィスト」1995年 [#ここで字下げ終わり]